【随筆】−「善光寺縁起」        浪   宏 友


 「遠くとも一度は参れ善光寺」と言われる信州の善光寺も、当初は山間地の素朴な一寺院にすぎなかったと思われます。それが、霊験あらたかな霊場としてもてはやされ、栄えるようになって今日に至っています。
 そうなるには、善光寺の由来を物語る「善光寺縁起」が大きな役割を果たしたと、学者・研究者の間では論じられています。
 善光寺縁起によれば、善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」が造像された経緯は、釈尊が在世していた頃のインドに遡ります。
 当時、インドの毘舎利国(びしゃりこく)に、月蓋(がっかい)という長者がいました。長者は、釈尊の評判を聞きながらも、教えに耳を傾けようとはしませんでした。
 あるとき、毘舎利国に疫病が蔓延し、多くの人の命が失われました。このところの、新型コロナウイルス感染症みたいなことだったのかもしれません。
 そして、とうとう長者の愛娘までも、疫病に罹ってしまったのです。釈尊を見向きもしなかった月蓋長者も、このときばかりは釈尊のもとに走りました。
 ねんごろに教えを受けた月蓋長者は、帰宅すると、すぐさま西方に向かって一心に阿弥陀如来を念じました。すると、阿弥陀如来が観音菩薩、大勢至菩薩を伴って出現しました。阿弥陀如来の全身から発せられた光が届いたところから、疫病が治まり、長者の娘も起き上がりました。
 感激した月蓋長者は、阿弥陀さま、観音さま、大勢至さまを写した像を作らせました。こうして、一光三尊阿弥陀如来の像が生まれたのです。
 月蓋長者が亡くなった後、一光三尊阿弥陀如来像は、自ら空を飛んで、朝鮮半島の百済国に入りました。
 百済で数々の功徳を顕された阿弥陀如来は、あるとき、日本に渡りたいとおっしゃいます。このご意思を受けて、百済の聖明王が、一光三尊阿弥陀如来像を、日本の欽明天皇に献上したとか、阿弥陀如来がご自分で海を渡り、摂津の国(現在の大阪あたり)の難波に漂着したとか、伝承は一定しませんが、いずれにしても日本に入りました。
 一光三尊阿弥陀如来像が、ご自分の意思で日本に入ったということと、日本に入った最初の仏像であるというところが、この伝承のポイントです。
 渡来した仏像をめぐって、仏像を礼拝するべきであると主張する蘇我稲目と、礼拝するなどとんでもない、日本には古来からの神々がいらっしゃると主張する物部尾輿との間に、激しい争いが生じました。
 争いは息子である物部守屋と蘇我馬子に引き継がれ、ついに武力衝突に発展し、蘇我馬子が勝利しました。
 蘇我馬子は、念願の仏教寺院を建立しました。これが日本最古の仏教寺院である飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)です。蘇我馬子に協力した厩戸皇子(聖徳太子)は、四天王寺(大阪市天王寺区)を建立しました。
 物部氏と蘇我氏の争いの中、物部氏が優勢だった時期に、一光三尊阿弥陀如来像は物部氏に奪われて、難波の堀江に捨てられ、水底に沈められてしまいました。
 蘇我氏が勝利したあと、聖徳太子が難波の堀江に赴き、阿弥陀如来をお迎えしようとしましたが、如来はこれを断ります。
 後日、堀江のそばを通りかかった本田善光の前に阿弥陀如来が姿を現わし、信濃に連れ帰るようにと告げました。善光は御本尊像を麻績(おみ、長野県飯田市麻績)の自宅にお連れしてご安置し真心からお仕えしました。
 皇極天皇元年(642)に、御本尊は長野に遷座し、その後、天皇の勅願によって善光寺の伽藍が創建されたとあります。
 こうした伝承が骨格となり、さまざまに肉付けされて膨大な物語となりながら、善光寺縁起は現代に伝わってきたわけです。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年4月号に掲載)