【随筆】−「善光寺の創建」        浪   宏 友


 善光寺縁起によれば、善光寺は皇極天皇の命によって伽藍が造営され、本田善光を開山として創建されたことになります。だとすれば、7世紀の中頃ということになりますが、史実としては確認されていません。
 日本に仏教が入ってきたのは6世紀の中頃のようです。それからしばらくの間、仏教を受け入れるか受け入れないかでひと騒動ありましたが、やがて、仏教を受け入れる形で治まりがつきました。
 推古天皇の時代には、飛鳥寺が建立されました。本格的な伽藍を備えたお寺としては日本で最初のものとされています。この当時の仏教は、一部の皇族、豪族のものでした。
 7世紀の後半、天武天皇は、それまで宮中とその周辺で信仰されていた仏教を、一気に地方に広げました。
 まず、各地に使者を遣わして『金光明経』『仁王経』を説かせました。地方の有力者の多くは、このとき初めて仏教に触れたのではないでしょうか。
 この事業が始まってから10年ほどの後、天武天皇は、「家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよ」との詔を下しました。これによって各地の有力な氏族が、自分たちの寺院を建立しました。
 こうした中で建立された寺院のひとつが、善光寺であろうと考えられています。そうだとすれば、善光寺の創建は7世紀の後半であり、建立したのは、当時、この辺りで勢力を張っていた氏族でありましょう。
 8世紀の中頃、聖武天皇が詔を発して、国ごとに国分寺、国分尼寺を建てさせました。大和には総国分寺として、東大寺が建立されました。
 善光寺に一番近い国分寺は、私の知る限り、八日堂と呼ばれる上田市の信濃国分寺です。
 9世紀の半ばも過ぎたころ、朝廷は、氏族が建立した私寺を定額寺と認定する制度を始めました。この制度で、有力寺院を統制しながら保護しましたが、国分寺、国分尼寺の代行をさせようとしたのかもしれません。いわば、半官半民のお寺です。
 記録では、信濃でも、佐久の妙楽寺、埴科の屋代寺、更級の安養寺、筑摩の錦織寺、伊那の寂光寺が定額寺となっています。この中に水内の善光寺が入っていません。しかし、記録に無くても定額寺になっていた寺院はいくつもあるそうで、善光寺もそのひとつであろうと考えられています。
 善光寺に関する記事が見える最古の文献は、今のところ、10世紀中頃の成立と推定される『僧妙達蘇生注記』だそうです。出羽国の僧妙達が閻魔大王から聞いた話のひとつに、善光寺の僧真蓮が、善光寺本師仏の花・米・餅・油を私用したために、その報いとして面の八つある三丈五尺の大蛇に生まれ変わったと記されているそうです。
 地方の有力な氏族が建立した寺院が、氏族の盛衰と運命を共にするのは致し方ないところです。それまで栄えていた氏族が衰退すると、その氏族が建てた寺院も荒れ寺になってだれも近寄らなくなったりします。
 善光寺を建てたと思われる氏族も、力を失い、滅んでいったようです。ところが善光寺は、その氏族と運命を共にすることがありませんでした。その後も荒れ寺になることもなく、栄え続けてきました。当時の都からほど遠い、信濃の山の中にある寺院としては、珍しい例だと考えられます。
 これは善光寺が、氏族などから寄進を受けた土地を護り、管理運営を適切に行なって、収入の道を確保したからかもしれません。
 善光寺が、一時、名門である天台宗寺門派園城寺の末寺となって権威を高めていたことも、存続の力となったにちがいありません。
 時代が進むにつれて周囲の寺院が次々と衰退する中、ひとり栄え続ける善光寺は、人びとの信仰の対象として重要な意味を持つようになったのでありましょう。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年5月号に掲載)