【随筆】−「善光寺如来」        浪   宏 友


 密教経典の一つとされる『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』(通称『請観音経』)に、次のエピソードがあります。
 釈迦牟尼世尊ご在世の時代、インドの毘舎利(びしゃり)国に疫病が広がり、国中の人びとが苦しみました。この国のリーダー的存在であった月蓋長者は、五百人の長者と共にお釈迦さまを訪れ、助けを求めます。お釈迦さまが西方の無量寿仏にお願いしなさいと勧めますと、無量寿仏が観世音菩薩と大勢至菩薩を従えて出現され、大光明を放って町中を輝かせます。感動する人々に向かって観世音菩薩が教えを説き、人びとはこの教えをいただいて実行します。これを見た観世音菩薩が真言を唱えます。こうして人びとは元の生活を取り戻しました。
 おおむね、このような内容です。この経文にある無量寿仏は阿弥陀仏です。「阿弥陀」には「無量寿」の意味があります。
 お寺が繁盛するためには、多くの参拝者を迎えなければなりません。それには、このお寺の尊さ、有難さ、ご利益を人々に伝える必要があります。そのために謳われるのがお寺の縁起です。
 昔の日本には、お寺や神社の由緒をつくるプロがいたようです。善光寺縁起も、その最初は、こうしたプロが手がけたのではないかと考えられます。
 善光寺縁起は、さきほどの『請観音経』のエピソードにヒントを得て作られています。ここでは、月蓋長者は、毘舎利国のリーダーではなく、お釈迦さまの教えにそっぽを向く欲張り、物惜しみの人物とされました。
 毘舎利国に疫病が流行ったとき、月蓋長者の娘も疫病に倒れました。長者は手を尽くしましたが万策尽き、お釈迦さまのもとに駆け付けました。お釈迦さまは、阿弥陀如来にお願いしなさいと、やさしく指導します。
 月蓋長者が家に帰って祈りを捧げますと、屋敷の門のところに阿弥陀如来・観世音菩薩・大勢至菩薩が現れて光を発します。すると娘の病気がたちまち良くなり、また、国中の人びとの病気も良くなりました。
 月蓋長者の娘という新しいキャラクターを取り入れるなど、もとのエピソードとはかけ離れた話になっていますが、それなりに説得力があります。作家の力量というものでしょうか。
 感激した月蓋長者は、釈尊の力添えで閻浮檀金(最高の金)を手に入れ、一光三尊阿弥陀如来の像をお造りしました。この像が、善光寺の本尊となるわけです。
 月蓋長者は寿命を全うしたのち、百済の聖明王となって生まれます。すると、一光三尊阿弥陀如来は空を飛んで百済の国に入ります。
 聖明王が亡くなると阿弥陀如来は、日本に入ります。阿弥陀如来がご自身で海を渡って日本の難波にたどり着いたという縁起と、百済の王が阿弥陀如来のお告げを受けて、日本の天皇に贈ったという縁起があります。現在用いられているのは後者です。
 いずれにしても、阿弥陀如来が、ご自分の意思で、百済に入り、また日本に渡ったというところがポイントだと思います。
 欽明天皇の13年(552年)に、百済の聖明王が、釈迦仏の金銅像一体と経論などを献上してきたと日本書紀にあります。日本に公式にもたらされた最初の仏像は、釈迦仏の金銅像だったわけです。
 ところが善光寺縁起では、百済の王から欽明天皇に贈られた仏像は、一光三尊阿弥陀如来像であるとあります。ここから、善光寺の本尊は、日本最初の仏像であると言うことになるわけです。
 このあとも、史実と虚構を巧みに織り交ぜて、善光寺縁起が展開されます。
 当初は素朴な縁起から始まり、時代とともに育ってきたと思われる善光寺縁起は、いまもなお語り継がれ、次の世代に受け継がれようとしています。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年6月号に掲載)