【随筆】−「聖徳太子と善光寺」      浪   宏 友


 仏教公伝を契機に始まった蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越されました。このとき、厩戸皇子(聖徳太子)は、蘇我馬子に協力しました。
 争いは武力衝突に発展し、蘇我氏の軍勢が物部氏の館に攻め込みました。しかし、軍事に長けた物部氏に、かえって圧倒されてしまいます。窮地に立った厩戸皇子は、ぬるでの木で四天王の像を作り「この戦に勝利したら、四天王をお祀りするお寺を建てます」と誓願しました。
 その甲斐があったのでしょうか、厩戸皇子に仕える舎人(とねり)の一人が、物部守屋が大木に登って蘇我氏の軍勢に矢を射かけているのをみつけ、忍び寄って射落としました。総大将を失った物部氏は総崩れとなり、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わりました。
 これによって、一光三尊阿弥陀如来が世に出る条件が整ったことになります。その意味でも、厩戸皇子は、重要な役割を担ってくださったと言えます。
 厩戸皇子は、誓った通り、難波の堀江の近くに四天王寺を建立しました。
 難波は、善光寺に縁の深い場所です。ある伝承では、百済から海を渡った一光三尊阿弥陀如来が、難波の堀江に着いたとあります。
 善光寺縁起では、一光三尊阿弥陀如来が、物部氏によって、難波の堀江に捨てられたとなっています。
 物部守屋を倒した厩戸皇子は、難波の堀江に、一光三尊阿弥陀如来をお迎えに上がりましたが、阿弥陀如来は、今はその時ではないとお断りになりました。その後、信濃の本田善光が、難波の堀江を通りかかったとき、一光三尊阿弥陀如来に呼び止められてお告げを受け、信濃にお連れしたというわけです。
 こうしたことから、一光三尊阿弥陀如来と厩戸皇子すなわち聖徳太子とは、切っても切れない関係にあると考えられるようになったようです。
 善光寺には、かつて、聖徳太子を祀った太子堂があったそうです。現在は太子堂はありませんが、「聖徳皇太子」と大書された大きな石碑があります。
   石碑の説明書きには「聖徳太子は、日本仏教の祖として信仰を集めるとともに、大工・左官等の職人の守護神としても篤く祀られてきました」とあります。江戸時代には、職人の間で、聖徳太子を讃える講が盛んに催されたようです。この碑は、長野県北部の建築関係業者が建立したものです。
 ここに「善光寺縁起には、善光寺如来と太子が文を交わした話が説かれています」とあります。「文」すなわち手紙のやり取りをしたというのです。
 それは、奈良の法隆寺に伝わる伝説です。厩戸皇子(聖徳太子)が、善光寺の阿弥陀如来宛に書簡をしたためたところ、たちどころに阿弥陀如来から返事が来たというのです。
 残された書簡は、四重五重の箱に収められ、法隆寺に現存しているそうです。絶対の秘蔵で、何人たりとも開けてはならないとかで、エックス線で調べたところ、三通の書簡らしきものがあることが確認できたそうです。
 ただ、明治時代に、政府が強引に箱を開けたことがあるそうで、一通の手紙の写しが東京の博物館にあるのだとききました。
 鎌倉時代に法隆寺の僧であった顕真が、この手紙を発見したのだそうですが、この時は大騒ぎだったことでしょう。
 ところが、後年の研究で、この手紙を書いたのが当の顕真だったことが分かったそうです。当時、法隆寺の内部でごたごたがあり、この争いを優位に導くために、往復書簡を偽作したのではないかと推測されています。
 しかし、法隆寺でも、善光寺でも、聖徳太子と善光寺の阿弥陀如来とが、実際に手紙のやりとりをしたものとして、人々に伝えているようです。信仰者の夢を壊さないためにはそのほうが良いかもしれません。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年7月号に掲載)