【随筆】−「空を飛ぶ巨木」      浪   宏 友


 善光寺の歴史を見ますと、火災の記述が多いことに気づきます。
 平安時代末期の1179年(治承4年)、そのころ、信濃は源氏の知行地だったようです。あるいは、木曽義仲の勢力範囲だったかもしれません。
 そこには、名高い善光寺がありましたが、火災ですべて焼失し、礎石ばかりが残っていました。鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、信濃の御家人たちに善光寺の再建を命じました。
 1191年(建久2年)には主だった伽藍が建ち、落慶供養が行われました。善光寺が源氏の菩提寺となったのは、このころかもしれません。
 再建後、源頼朝が善光寺に参拝したと言われています。善光寺参道に、駒返りの橋と呼ばれる小さな石橋があり、小さな穴が開いています。源頼朝が騎馬で善光寺に入ろうとしたところ、馬のひずめが石橋の穴にはさまって動けなくなったために、その先は徒歩で参拝したという話が伝わっています。
 1268年(文永5年)の初春、善光寺の西之門から出火、全焼してしまいました。この火災は、北信濃に勢力を持っていたと思われる、井上盛長による放火が原因でした。
 もともと源氏の流れを汲む井上氏は、武勲を立てながらも、いささか勇み足の行動をとって、幕府から疎んじられていました。そのような中で、性質が乱暴な盛長は、自分の勢力を見せつけようとしたのか、善光寺を焼き払ってしまったのです。あまりの乱暴に、井上一族からも憤激を買ったらしく、誅殺されてしまいました。
 善光寺の再建は急ピッチで進められ、火災から3年後の1271年(文永8年)秋には、金堂などが落成しました。
 1313年(正和2年)の初春、またまた火災が発生して金堂が消失しました。この火災からの再建に関連して、不思議な話が語られています。
 倉科に巨木があって、持ち主が善光寺再建のために寄附しました。この木はまっすぐに伸びて、梢が雲を突き抜けるほどの大木でした。これを切り倒し、引き綱を掛けて、大勢の人夫がとりつき、少しずつ引き出していたのですが、あやまって谷に落としてしまったのです。巨木は谷底に横たわり、動かすこともできず、途方にくれてしまいました。
 そのとき、この大木がひとりでに動き出し、天に飛び上がったのです。引き綱をつけたまま、巨木は峰を越え、谷を過ぎて、善光寺まで飛んでいきました。この様子に、人々は目がくらみ、心がすくんだといいます。
 志賀にも大樹があり、持ち主が寄付しました。きこりが斧を振り上げると、大きな音を立てて木が激しく打ち震えます。見上げると、枝の間から、巨大な蛇がこちらを見下ろしているのです。あまりの恐ろしさに、きこりは斧を投げ捨てて逃げかえりました。持ち主はじめ人びとは、どうしたものかと話し合いましたが、良い知恵も浮かびませんでした。
 その夜、大樹の持ち主の夢の中に、大蛇が現れました。大蛇は言いました。「私はこの樹に住みついてから数百年になる。その住処を失うのは非常に残念である。しかし、善光寺の如来堂の柱となるという話を聞いた。それなら、喜んで、あなたを助けよう」
 翌日、きこりがおそるおそる斧を振り上げましたが、なにごとも起きません。無事、この大樹を切ることができました。
 その後がまた大変でした。この大樹を引いてくる途中で、新しく開墾した畑に差し掛かったのです。ちょうど雨上がりで、泥が深く、とても巨木を運べる状態ではありません。どうしたものかと、困り果ててしましました。すると巨木がひとりでに動き出し、開墾地の上を飛んで向こうの大路に横たわったのです。
 このような数々の逸話が物語られるほど、善光寺の再建を、人びとは待ち焦がれていたのでありましょう。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年8月号に掲載)