【随筆】−「一度は詣れ善光寺」      浪   宏 友


 学術的な研究では、善光寺が建立されたのは七世紀末と推定されています。当時、天武天皇の意向によって、各地の有力者たちが競って寺院を建立したそうですが、その流れの中で信濃の有力な一部族の寺として、善光寺が建てられたと考えられています。
 このような寺院の多くは、建立者が没落すると支える人が居なくなり、廃絶するしかありませんでした。しかし、なんらかの経済的基盤を持つことができた寺院だけは、自立して生き残ることができました。善光寺はそのような寺院の一つであったと思われます。
 善光寺は、天台宗寺門派園城寺の末寺になったことがあります。これによって、都との結びつきが強くなり、都の人々の間でも、信濃の善光寺が話題になったでありましょう。
 善光寺をメジャーな存在にしたのは、なんといっても、善光寺縁起であろうと言われています。壮大なドラマを物語る善光寺縁起が、人々の心を惹きつけ、善光寺に足を向けさせたことが、繁栄の大きな力になったと考えられるのです。
 善光寺縁起によれば、善光寺は皇極天皇の御代に創建されたとされますから、七世紀前半ということになります。都に暮らす人々から見れば、そんなに古い時代に、皇極天皇のお声がかりで建てられた由緒正しい寺院が、信濃の山奥にあるのです。さぞかし、興味を引かれたことでありましょう。
 また、善光寺縁起は四つの魅力を語ったと言われます。「本師如来」「三国伝来」「生身の仏」「女人救済」です。
 「本師如来」とは、善光寺如来は日本に初めて到来なさった仏さまであり、おおもとの仏さまであるということです。
 「三国伝来」とは、インドで造られた如来像が、空を飛んで百済に降り立ち、海を渡って日本にお入りになったということです。
 インド・百済・日本で、多くの人々を分け隔てなく救ってくださった、ありがたい仏さまが、善光寺にいらっしゃるのです。
 「生身の仏」とは、善光寺の本尊は、ご自分の意思で動く生きている仏さまだということです。ただ飾られているだけの仏像ではありません。現実に救ってくださる霊験あらたかな仏さまなのです。  「女人救済」とは、善光寺如来は多くの女性を救ってきた、ありがたい仏さまであるということです。男性中心の世の中で、数々の女性の救済を物語っている善光寺縁起は、女性たちにとって、大いなる魅力であったにちがいありません。
   善光寺縁起を通して、善光寺はこんなにありがたいお寺なのだと、人びとの間に定着していったようです。
 鎌倉時代の初期、源頼朝は、善光寺が火災で全焼して久しいことを知ると、御家人に命じて再建し、源氏の菩提寺としました。
 すると、頼朝に忠誠を誓う御家人たちが、自分の支配地に新善光寺を建てました。こうして善光寺は各地に広がりました。
 蒙古襲来の折に、鎌倉幕府は、九州地方に御家人たちを配置しました。御家人たちは、任地に新善光寺を建てました。こうして、善光寺は九州にまで広がっていきました。
 また、善光寺聖(ひじり)と呼ばれる遊行者たちが、全国を歩いて、善光寺の修復などのための浄財を集めました。
 聖たちは善光寺縁起を語ったり、絵解きをしたりして、善光寺の功徳を説き、善光寺にまつわるお札を配って寄進を呼びかけました。こうした聖たちの活動によって、日本全国に善光寺の有難さが伝わり、多くの信者を生み出しました。
 やがて、各地で善光寺講が結ばれ、多くの人が善光寺に訪れるようになりました。
 そして、「遠くとも一度は詣れ善光寺」とまで言われるようになり、今では、全国各地の人々が、善光寺如来との縁を求めて、善光寺の山門を潜っています。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年9月号に掲載)