【随筆】−「玉鶴姫」              浪   宏 友


 長野市の、あるホームセンターの屋上駐車場に立ちますと、すぐ前の三階建ての建物の向こうに、建物の倍の高さはあろうかと思われる大きな木が見えます。ホームセンター前の自動車通りからちょっと入ったところに小さな墓地があり、墓石群の中央に腰を据えているケヤキの古木が見えているのです。
 墓石群から離れた古木のごつごつとした巨大な根の傍らに、「南無阿弥陀仏」と書かれた仏塔と、古びた五輪塔が建っています。これが姫塚で、善光寺七塚のひとつとされています。姫とは、熊谷直実の娘玉鶴姫です。
 鎌倉時代初期の武将熊谷直実は、武蔵の国熊谷、現在の埼玉県熊谷市の出身です。
 直実は、はじめ平知盛に仕えましたが、のちに源頼朝の家人になりました。
 源氏が平家を一の谷に攻めたとき、直実は義経のもとで奮戦しました。
 源氏に攻め立てられた平家の軍勢は、たまらず海へ逃げました。このとき熊谷直実は、沖へ逃げようとする平家の武将を呼び止め、取って返してきた武将と組打ち、波打ち際に組み敷きました。兜をはいで首を討とうとしたとき、その武将が直実の息子と同年配であることを見て取り、手が鈍りました。このまま逃がそうかと思いましたが、味方の足音が近づいてくるのを聞いて、やむなく首を討ちました。この武将は平敦盛でした。
 我が子と同年配の若者を討ったことで、世の無常を感じた直実は、のちに法然上人を訪ねて出家し、蓮生となりました。
 熊谷の地に残されていた直実の妻は、一子玉鶴姫とともに夫を案じていましたが、ついに病に倒れ、帰らぬ人となりました。
 一人残された玉鶴姫は、頼る人も見当たらず、風のうわさに父が出家したとか、善光寺で見かけたと耳にして、侍女に守られながら、善光寺へ向かいました。
 途中、深谷の国済寺に立ち寄ったとき、住職は、女の二人旅は危ないからと二人を剃髪し、玉鶴姫には妙蓮、侍女には晧月と法名を与え、信濃追分まで送りました。
 住職と別れた二人は道を急ぎました。しかし、慣れない旅の疲れで、千曲川のほとり、綱嶋のあたりで姫が倒れてしまったのです。それでも善光寺はもう目と鼻の先です。定まらぬ足を踏みしめながら犀川の渡しにつきました。ところが、昨夜来の雨で増水した川を渡してくれる者はありません。そうこうしているうちに日が暮れてしまいました。
 善光寺へという望みを失いかけた姫を、侍女は励まし続け、善光寺如来に呼びかけながら、一心不乱に念仏しました。
 そこに一人の老人が現れました。老人は船を用意して二人を招き、荒れ狂う川を渡してくれたのです。岸に上がった二人がお礼を言おうと振り返ると、もう老人のすがたはなく、ただ、善光寺の方向に一筋の光が飛び去ったように見えました。
 二人はさらに歩き始めましたが、いくらも進まないうちに、姫が動けなくなりました。
 そこに一人の僧が訪れました。侍女が僧に玉鶴姫の出生やら、ここまで来たいきさつやらを話しますと、僧は言葉を失い、涙を流し、姫を見つめました。この僧こそ、玉鶴姫の父、今は蓮生と名を変えた熊谷直実だったのです。善光寺で参篭していた蓮生が、南のほうに紫雲がたなびくのを見て不思議に思い、訪ねてきたところだったのです。
 侍女は、この人こそ、姫の父親だと気づきましたが、蓮生は名乗ることなく、必死に看病しました。意識もうろうの玉鶴姫に、父は僧蓮生として語りかけ、口移しをするように念仏に導きました。姫は念仏しながら、短い命を閉じました。
 蓮生は、姫を葬り、ケヤキを植えました。近くに寺を建てて、姫と妻の菩提を弔いました。そのお寺が熊谷山仏導寺であり、姫を埋葬したところに姫塚が建てられたと言い伝えられています。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年10月号に掲載)