【随筆】−「親鸞聖人と善光寺」         浪   宏 友


 平安時代末期、法然聖人の説く念仏の教えは、多くの人びとを引き付けました。このことを妬んだり恨んだりする人びとが、朝廷を動かして弾圧を加え、法然聖人とその門弟たちを流刑にしました。
 門弟の一人である親鸞聖人も越後に流されました。そのとき35歳でした。39歳で流刑を解かれた親鸞聖人は、師の法然聖人が他界したことを知らされて京に戻るのをやめ、関東に足を向けました。道すがら、善光寺に100日間逗留されたと伝えられています。阿弥陀如来に帰依する親鸞聖人が、一光三阿弥陀如来を本尊とする善光寺に参拝するのは自然なことと言えるでしょう。
 善光寺本堂の前に、親鸞聖人の像が立っていますが、この像は松の小枝を持っています。
 善光寺正面の階段を登って本堂に入りますと、そこに大きな花瓶があって松が活けられ、親鸞聖人お花松と呼ばれています。
 親鸞聖人は、善光寺参拝の折り、御本尊に松を奉納されたそうで、その故事にちなんでのことでしょう。
 善光寺本堂の西側に経蔵がありますが、そのさらに西側に祠があって、そこに阿弥陀如来の像が祀られています。爪彫如来(つめぼりにょらい)と呼ばれ、親鸞聖人が善光寺滞在中に、ご自身の爪で彫られたという伝説があります。物理的にはあり得ない話ですが、阿弥陀如来にお仕えする親鸞聖人の信仰心を表わす伝説なのでありましょう。
 この如来は、眼病の仏さまとされています。そのわけは、像を見れば納得がいきます。像を見ると、お顔の眼のあたりがへこんでいるのです。あたかも、阿弥陀如来さまが、眼病の人を憐れんでいるかのように見えるから不思議です。爪彫如来のお堂には、多くの参拝者があるらしく、いつも、たくさんの絵馬が掛かっています。
 善光寺参道の仁王門前に「堂照坊」という宿坊があります。門柱に「親鸞聖人百日御逗留舊蹟」の看板が掛かっています。親鸞聖人は、100日の間、善光寺に逗留なさったと言われていますが、その宿が堂照坊だったということのようです。
 親鸞聖人は、越後から善光寺に向かう途中、旧友を訪ねて戸隠に立ち寄ったとされます。戸隠から善光寺に向かう途上、山道で休息したときに、道端の笹の葉を取って地面に「南無阿弥陀仏」の文字を作り、同行者に教えを説いたそうです。
 そののち、その形を写し取った名号を堂照坊に与えました。笹の葉を象った文字で「南無阿弥陀仏」と書かれた笹文字御名号が、堂照坊に現存しているそうです。
 善光寺に数々の伝説を残す親鸞聖人ですが、善光寺に関する和讃を五首残しておられます。五首のすべてに「守屋」の文字が見えます。「守屋」とは、物部守屋のことです。
 百済の聖明王から日本の欽明天皇に、仏教の経典と仏像が贈られてきたとき、これを受け入れるかどうかで、崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏・中臣氏の間で大論争が起きました。一時期、物部氏が優勢で、一光三尊阿弥陀如来像を奪い取り、難波の堀江に沈めるなど、崇仏派を迫害しました。ついに武力衝突へと発展し、物部守屋が倒されて崇仏派の勝利となりました。
 親鸞聖人の善光寺和讃は五首からなり、概略、次のような内容になっています。
 「守屋は、善光寺の如来について何も知らないまま“この仏像は熱病に罹っている、日本国に疫病が流行るのはこのためだ”と言いふらします。人びとは権力者である守屋に追随して僧侶たちを蔑みます。守屋の際限のない邪見が、ものごとを進めています」
 この和讃には、法然上人を始めとする念仏者を、故もなく弾圧し迫害した都の宗教者やその追随者を守屋の一統に見立てた、親鸞聖人の深い憤りが込められていると、私には感じられます。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年11月号に掲載)