【随筆】−「大本願・大勧進」               浪   宏 友


 松尾芭蕉が、善光寺に参詣して詠んだと言われる句があります。
 月影や四門四宗もただひとつ
 仏教にはいろいろな宗派があります。また、いろいろな修行の道があります。それを「四門四宗」と詠んでいます。「ただひとつ」とは、それらが一つに溶け合っているという意味でありましょう。善光寺は無宗派の寺であると言われているところから生まれた句であろうと思います。
 善光寺が建立されたのは、善光寺縁起によれば7世紀の中頃になりますが、歴史的には7世紀末と推定されています。その時代には、まだ宗派ということがありませんでした。
 その後、善光寺は、天台宗寺門派の園城寺の末寺となりましたが、それは経営上のつながりであって、宗派は意識されなかったようです。やがて、園城寺とのつながりもなくなり、そのまま無宗派の寺として、今日まで続いてきたということのようです。
 善光寺に隣接して、二つの寺院があります。天台宗の「善光寺大勧進」と、浄土宗の「大本山善光寺大本願」です。これら二つの寺院の住職が、善光寺の住職を兼ねています。
 長野市の中央通りを登っていくと、「善光寺」の表示のある信号機に突き当り、ここから、善光寺の参道が始まります。
 参道の右側には宿坊が並びます。左側の塀の中は、大本願の境内地です。大本願は、仁王門のところまで続いています。
 大本願のホームページを開きますと、「善光寺大本願は、642年皇極天皇の命により蘇我馬子の娘・尊光上人によって開かれ、約1400年の歴史を経て今日に至る尼僧寺院です」とあります。善光寺縁起を基礎にした由来になっています。
 ここにありますように、大本願は尼寺です。住職は尼公上人(にこうしょうにん)と呼ばれ、皇室に関係する方々が務めておられます。
 仁王門をくぐって仲見世通りを抜けますと、駒返りの石橋があります。その先の右側に六地蔵と濡れ仏が並んでいます。
 その向かいに休憩所があり、その後ろは池になっています。池の向こうが大勧進の境内地で、山門のあたりまで続いています。
 大勧進のホームページには、「大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました」とあります。これも善光寺縁起を基礎にした由来です。大勧進の住職は貫主(かんず)と呼ばれています。
 大本願の尼公上人と大勧進の貫主は、善光寺の住職を兼ねています。
 ところで、「本願」とか「勧進」とかは、もともとどういう意味なのでしょうか。
 「勧進帳」という、歌舞伎の出しものがあります。源頼朝に追われる義経主従が、山伏すがたに身をやつし、富樫左衛門の守る安宅関に通りかかります。先達姿の弁慶は、焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言います。「勧進」とは、いわば募金活動です。その主意を書いた書類が「勧進帳」です。弁慶は富樫の求めに応じて声高らかに勧進帳を読み上げます。このあと、義経を見破られそうになりますが、弁慶の咄嗟の機転で義経を折檻して切り抜けるというお話です。
 善光寺も、焼失後の再建やら、傷んだ堂の修理やらで多額の費用が掛かりますので、僧侶たちが全国に勧進に歩きました。いわゆる善光寺聖です。
 善光寺には「本願」という組織と「勧進」という組織があり、それぞれに勧進を行なっていたそうです。「勧進」という組織の長が「大勧進」であり、「本願」という組織の長が「大本願」で、それぞれ善光寺に隣接する拠点を持っていました。それが、現在の「大本願」「大勧進」なる寺院として引き継がれてきたということのようです。
 そこには、どうやら、複雑ないきさつが、綾を成しているようです。(浪)

 出典:清飲検協会報(令和2年12月号に掲載)