【随筆】−「大岡忠相の生い立ち」                   浪   宏 友


 大岡越前守忠相。日本人なら、知らない人はいないのではないでしょうか。
 大岡裁きが有名で、ルールは厳しく守りながらも、機知に富み、人情味の篤い裁きをしたと伝えられています。
 大岡裁きは、江戸時代に『大岡政談』などの実録風の小説集によって流布し、多くの人が愛読したことに始まるようです。
 専門家の研究によれば、これらの小説に描かれる大岡裁きは、そのほとんどが、本人とは関係がないのだそうです。名奉行として庶民に人気のあった大岡忠相を持ち出して作り上げた、虚構の物語だったわけです。
 「縛られ地蔵」「子争い」「三方一両損」などの有名な話も、そうした物語であることが分かっています。
 大岡忠相は、延宝5年(1677)、四代将軍家綱の時代に、大岡忠高の四男として生を受けています。10歳のときに、大岡忠真の養子となりました。実父も養父も、上級の旗本でした。
 忠相は、23歳のときに家督を相続して、大岡家の当主となりました。
 元禄15年(1702)に初めて幕府の役職につき御書院番となります。翌元禄16年11月23日、関東地方が巨大な地震に襲われました。元禄の大地震です。忠相は大地震後の復旧作業に誠心誠意携わったと伝えられています。若き日のこの体験は、その後の人生に大きく影響したに違いありません。
 宝永元年(1704)、忠相は御徒頭に昇進、宝永4年(1707)に、御使番、宝永5年(1708)に目付となります。
 そして正徳2年(1712)、35歳のときに山田町奉行を拝命しました。
 山田町奉行というのは、江戸幕府の遠国奉行のひとつで、伊勢国(現在の三重県)山田にあって、伊勢神宮の警備・遷宮、伊勢志摩にある幕府領の管理、鳥羽港の管理などを行う重要な役職です。
 大岡忠相が、山田奉行を務めていたころのエピソードが、伝えられています。
 山田奉行が管轄する阿漕浦は、神さまの海として、禁漁になっていました。ところが最近、しきりに密漁が行われていると訴えがありました。それも、大勢で、大騒ぎしながらやっているといいます。
 山田奉行の役人が調べてみますと、密漁しているのは紀州徳川家に関わりのある者たちらしく、ときおり「若さま!」という声が聞こえてきます。密漁していたのは、紀州徳川家の三男徳太郎信房、後の八代将軍吉宗だったのです。
 このことを聞いた忠相は、役人を差し向けて容赦なく捕えさせました。
 捕えられた「若さま」と呼ばれる男が「わしは紀伊藩主の息子である、無礼をするな」と威張っています。忠相は、「黙れ!」と、この男を一喝しました。
 「もしも、おぬしが紀伊藩主の息子なら、紀伊の若殿が密漁をしたと世間に喧伝されるであろう。紀伊の殿さまが、ほかの殿さまから、お宅の若殿は密漁をなさったそうですななどと問われたら、どう答えるのだ」
 これを聞いた男は、口をつぐんでしまいました。忠相は、「紀伊の若殿を名乗るのは、気が触れているからであろう。罰するには及ばぬ、放してやれ」と、役人に命じます。役人は、男を丁重に案内して、表門から送り出します。そこには、紀伊藩の重役が駕籠をしつらえて迎えに来ていました。
 八代将軍となった吉宗は、大岡忠相を呼び出し、江戸町奉行に任命しました。40歳のときでした。
 権威・権力を恐れることなく、すじみちを通しながらも、相手のことを思いやる忠相に、この男ならよい奉行になるであろうと考えたからでありました。その後、二人は協力して政治を行ない、吉宗は徳川家中興の祖と言われ、忠相は名奉行と讃えられました。(浪)