【随筆】−「雲霧仁左衛門」                   浪   宏 友


 テレビなどでおなじみの、雲霧仁左衛門ではありません。江戸時代に大岡政談として描かれた、雲切仁左衛門のお話しです。
 甲州原沢村の大百姓佐野文蔵は、妻お時の父が大病になったとの知らせに、下男の吉平を伴って急ぎ駿河に向かいました。途中、関所を通らなければなりませんが、代官所に通行手形を出してもらう暇がありませんでしたので、関所を通らずに行くことにしました。 関所の手前の茶店で一休みし、抜け道に向かう三人を見ていたものがありました。雲切仁左衛門、肥前の子猿、向こう見ずの三吉の盗賊たちです。
 待ち伏せした盗賊たちは、子猿と三吉が岡っ引きを装って、関所破りの文蔵たちを捕縛し、役人を装う仁左衛門の前にひきつれました。仁左衛門は、文蔵たちの名前や住まいを聞き出し、子猿と三吉の口止め料と称して持ち金を巻き上げ、解放してやりました。
 文蔵・お時は、下男の吉平に路銀を取りにやって、自分たちは駿河に向かいました。駿河では大病から快復したお時の父に会って安心し、原沢村に帰りました。
 それから数カ月後、原沢村の文蔵の屋敷に、江戸町奉行大岡越前守の手の者と称して、見知らぬ役人が現れました。関所破りの罪で調べるからと、文蔵たち一家を家に閉じ込め、蔵を調べて引き上げました。それっきりなのを不思議に思い、代官所に使いを出しますと、そんな調べはしていないと言います。役人が蔵を調べますと、千両をこえる現金が無くなっていることが分かりました。
 首尾よく千両をこえる現金を手にいれた雲切仁左衛門たちは、これを山分けし、これからは見知らぬ同士である、道であっても挨拶しないと約束して、三方に別れました。
 雲切仁左衛門は、本郷に米商の甲州屋を開き繁盛しました。子猿は本町で肥前屋を名乗り、呉服の商いをしました。三吉は、大金をふところにして遊び歩き、博打を覚え、いつしか文無しになってしまいました。
 ある日、三吉は、偶然子猿を見つけ、肥前屋の主人に納まっていることを知りました。三吉は、肥前屋を訪ね、旦那さんにお会いしたいと取次ぎを頼みます。子猿は、三吉が訪ねてきたのを知ると、店の外に連れ出し、もう合わない約束だろうとなじりながら、持ち合わせていた金をやって、もう来ないでくれと別れました。しかし、三吉は、金がなくなると訪ねてきました。三吉は、仁左衛門が本郷で米屋をやっていることを知り、こちらでも無心を繰り返しました。
 仁左衛門と子猿は、三吉をこのままにしてはおけないと相談し、ある晩三吉を誘い出して切り殺し、海に投げ込んでしまいました。
 二人は三吉にかなりな財を奪われて、商売にも差しさわりが出るほどでした。これを取り戻すために、両替町の島屋を襲う計画を立てました。土砂降りの夜、二人は島屋に忍び込み、金箱を盗み出そうとしましたが、番頭に気づかれて騒ぎ立てられてしまいます。仁左衛門は刀を振り回しながらようやく逃げ出しました。逃げ切った二人は、奪った金を分け合い、それぞれの店に帰りました。
 島屋は奉行所に、奪われた金には、島屋の刻印が彫ってあると届けましたから、奉行所では両替屋や商家にその旨触れ廻りました。すると、肥前屋がお触れの小判で支払いをしたとの通報がありました。奉行所はすぐさま肥前屋を召し取り、厳しく取り調べて白状させました。
 肥前屋が召し取られたと聞いた仁左衛門は、もはやこれまでと観念し自ら出頭しました。
 大岡越前守は、仁左衛門の潔さを認めながらも、かつて甲州原沢村で、越前守の名を騙って大金を奪った罪なども暴いて、鈴ヶ森で極刑に処しました。
 あのとき関所破りを行なった文蔵・お時に対しては、狐に化かされたのであろうと、罪を問わなかったということです。(浪)