【随筆】−「傾城瀬川」                 浪   宏 友


 その朝、南町奉行大岡越前守のもとに、新吉原で、遊女瀬川が仇討ちをしたとの知らせが入りました。瀬川の懐剣によって一人が重傷、連れの二人が逃げたという報告です。
 遊女瀬川、置屋松葉屋半左エ門など、関係者が奉行所に呼び出されました。問われて、瀬川は身の上を語りました。
 瀬川の本名はお高、父は医者の森通仙、母は竹。お高は大切に育てられ、読書きはもちろん管弦、茶湯、活花を習得しながら、美しく成長しました。
十五、六になったころ、源八という男がお高に横恋慕し森通仙の下男与八を使って手紙を寄こしました。お高はこれを拒絶し、父母は与八を解雇しました。
 それからまもなく、森通仙の門前に、死んだ鹿が置かれていました。奈良奉行は、森通仙に対する誰かの嫌がらせであろうとしながらも、通仙に立ち退きを命じました。
 通仙は他国に移りましたが、馴染みがないため病人が来ません。その上、一家で遠出をしているあいだに盗人が入り、医療の道具を持っていかれてしまいました。気落ちした通仙は病となり、黄泉に旅立ってしまいました。
 後でわかったことですが、死んだ鹿も、医療道具の盗難も、源八の仕業だったのです。
 途方に暮れる母と子を、通仙の友である俳人の貞柳が心配して、お高の嫁ぎ先を世話しました。相手の小野田幸之進は40歳、お高は18歳でした。幸之進は、母を優しく引き取ってくれました。
 幸せな毎日が続いていたある日、幸之進は江戸表から国元へ、450両という大金を届けることとなりました。その旅先、馬で行く幸之進が襲われ、落馬した所を突き殺され、金を奪われました。幸之進の死に方がぶざまだと家は断絶されました。
 住むところを失ったお高とお竹親子は、幸之進と親しかった商人のところに身を寄せましたが、ここもまた大火で類焼してしまい、浅草今戸に移り住みました。
 お高は、吉原へ入ることを決意しました。遊女となれば、まとまった金も入るので、母やお世話になった方々に使っていただける。また、夫幸之進の敵を見つけることもできるのではないか。そう考えたからでありました。
 お高は、新吉原の松葉屋半左衛門のもとに入り、松葉屋の名妓瀬川の名をもらって、大いに売れ、松葉屋の金箱となりました。
 ある日、茶屋の桐屋に入った武家風の三人の客が、400両という大金を数日預かって欲しいと言ってきました。桐屋では、証文を取り交わして預かりました。たまたまその証文を覗き見た瀬川が驚きました。証文には、三人の名が記されていましたが、その中の後藤平四郎の名の下に押されている印形が、紛れもなく夫のものだったのです。平四郎の腰のものを見せてもらうと、これまた夫のものでした。平四郎こそ夫の敵と確信した瀬川は、短刀を懐にして時を待ちました。
 夜、瀬川は、平四郎の部屋の遊女に用を頼み、替わって瀬川が部屋に入り、平四郎に近づきました。隙を見て、夫の敵と叫びながら瀬川は懐剣を突き立てました。声を聞いて入ってきた男にも突きかかって傷を負わせ、さらに突き立てようとしたとき蹴とばされて気を失いました。そこへ店の者たちが駆けつけて大騒ぎとなったのです。
 越前守は、この話をじっと聞いていました。
 重傷を負った平四郎は、瀬川の夫幸之進を殺したのは源八であり、自分は馬子を殺したと言いおいて、息絶えました。逃げた二人も捕らえられて、瀬川に突かれて傷を負った源八は獄門、佐七は遠島となりました。
 瀬川は、直接の敵であった源八を討てなかったことを悔みましたが、そなたは立派に敵を討ったと、越前守に慰められました。
 瀬川は、この後松葉屋へは戻らず、庵を結んで名を自貞と改め、剃髪して衣をまとい、母とともに過ごしたということです。(浪)