【随筆】−「小間物屋彦兵衛」              浪   宏 友


  大阪で小間物を商っていた彦兵衛は、商売が立ち行かなくなり、妻と二人の男の子を残し江戸へ出て、小間物の行商を始めました。
 ある日、行商の途中で激しい雨に遭い、ある家の軒下で、雨の止むのを待っていました。すると、この家の六十がらみの女性から声をかけられ、中に入れてもらいました。この女性は、米屋という大きな旅籠の隠居で、下女と二人で暮らしているのでした。
 彦兵衛は、隠居に気に入られて、お客を紹介してもらったり、仕入れのお金が足りない時には一時的に貸してもらったりするまでになりました。
 彦兵衛は、ある品物の入札に参加して百両で落札しました。10両の手付を納めて、残り90両を借りようとご隠居を訪ねました。
 ご隠居は、ここに百両あるけれど明日ご門跡さまにお届けするものだからと戸棚にしまい、別に高価な品物をいくつか貸してくれましたので、これを質入れし、他でもやりくりして、90両を揃えました。
 翌日90両を納めて品物を受け取りほくほくしながら歩いていますと、いきなり役人に捕らえられてしまったのです。昨夜、米屋のご隠居が殺害され、その犯人にされたのです。
 彦兵衛は、まったく身に覚えがないと言い張りましたが、ご隠居が百両持っていることを知っているのは彦兵衛だけだと下女が証言し、ご隠居の息子の旅籠の主人が、彦兵衛に違いないと言い立てているのでした。ついに拷問にかけられ、あまりの苦痛に、私がやりましたと言ってしまいました。
 奉行の大岡越前は、彦兵衛に死罪獄門を言い渡しました。まもなく、その首が鈴ヶ森の処刑場にさらされました。彦兵衛の人相はすっかり変わってしまっていました。
 この知らせを聞いた大阪の妻と二人の子供はとても信じらません。15歳になる長男の彦三郎が、確かめようと江戸に向かいました。
 彦三郎が、夕刻、鈴ヶ森に立っていると、駕籠が近づいてきました。急いで身を隠した彦三郎に、駕籠かきたちの話し声が聞こえてきました。彦兵衛は無罪であり、真犯人は他にいるという内容でした。
 彦三郎は二人の家を確かめて、翌朝、訪ねました。二人は大阪からはるばる出てきた少年に感動しました。そして、彦兵衛が住んでいた長屋の家主八右衛門のところに連れて行きました。八右衛門は、権三と助十それに彦三郎の話を聞いて頷きましたが、奉行所としては終った事件だから、ここは策を用いなければならないと考えました。
 翌朝、八右衛門と権三、助十は、彦三郎をしばって奉行所に行きました。彦兵衛は真犯人ではないと言って、彦三郎が暴れるのですと訴えました。
 大岡越前に聞かれて、権三と助十が言いました。あの夜、権三と助十が夜遅くに帰ると、同じ長屋の勘太郎が天水桶で何かを洗っていた。翌朝見ると、天水桶に血がついていた。仕事先で、米屋の隠居が殺されて、百両盗まれたという噂を聞いた。これは勘太郎がやったにちがいないと思った。やがて勘太郎が住まいを立派に改装した。いよいよ間違いないと思った。そんな話しでした。
 すぐに勘太郎が捕縛されて白状し、彦三郎、権三、助十たちの同席する白州で、獄門が言い渡されました。
 彦三郎は大岡越前に涙ながらに訴えました。 父の冤罪は晴れましたが、父は帰ってきません。せめて亡骸をお下げ渡しくださいと頼みました。
 そのとき、白州に人が入ってきました。見ると彦兵衛です。一同は、驚くばかりでした。
 越前は、彦兵衛が真犯人とは思えなかったのです。たまたま獄門を言い渡された囚人が病死しましたので、彦兵衛として獄門としたのでした。
 彦兵衛、彦三郎は抱き合って喜び、権三、助十も涙を流して喜びました。(浪)