【随筆】−「天一坊事件」                浪   宏 友


 八代将軍吉宗の御落胤と称する徳川天一坊が、華々しく江戸に入りました。
 天一坊と介添えの山内伊賀之亮たちが、老中松平伊豆守の役宅に招かれ、居並ぶ幕閣に、御落胤の証拠となるお墨付きと短刀を示し、吉宗が与えたものであることが確認されました。幕閣は協議し、このうえは、吉宗と天一坊の親子の対面を取り計らうことにしました。しかし、末席に控えていた大岡越前には、疑念が生じていました。天一坊の人相が、気になって仕方がなかったのです。
 越前は、伊豆守に、ご対面前に、調査をさせてほしいと熱心に頼みましたが、なかなか受け入れてもらえません。お上も対面を楽しみにしているときに、余計な横やりを入れるなと言うのです。越前は、水戸藩主綱条卿を動かして、ようやく調査の許可を得ました。  越前は、家来二人を紀州に発たせました。二人は、早駕籠を乗り継いで、二日二夜で紀州に入りました。
 越前は、奉行所に天一坊一行を呼びつけ、改めて、証拠のお墨付きと短刀を確かめました。これが本物であることが分かると、天一坊を上座に据え、問答を仕掛けますと、天一坊の介添えを務める山内伊賀之亮が受け答えました。伊賀之亮の隙の無い受け答えに、越前は付け入る隙を見つけることが出来ませんでした。
 天一坊一行を帰した後、越前は病気と称して役宅に閉じこもり、紀州からの報告を待ちました。
 紀州に入った家来二人は、和歌山の奉行所の協力を得て調査を始めました。
 紀伊藩主光貞の三男徳太郎信房は、出生してすぐに家老加納将監の屋敷で育てられました。やんちゃな少年となった徳太郎は、加納将監の屋敷の女中の一人沢の井とねんごろになり、沢の井が妊娠しました。徳太郎は、部屋住みで家老に養われていましたから、ここで出産させるわけにもいかず、お墨付きと短刀を沢の井に与えて、実家に送り出しました。沢の井の母は産婆で、お三婆と呼ばれていました。月満ちて、沢の井は男子を出産しましたが、まもなく死んでしまい、気を落とした沢の井も他界してしまいました。娘と孫を失ったお三婆は、一時気がおかしくなりましたが、やがて恢復し産婆を続けていました。
 部屋住みの三男だった徳太郎は、長男、次男が相次いで病死したため、家督を継ぐことになり、紀州藩の藩主となりました。さらに、七代将軍家継が他界したため、八代将軍吉宗となったのでした。
 お三婆の住む平野村に感応院という寺があり、宝沢という少年が、住職の手で育てられていました。宝沢はしばしばお三婆を訪ね、よもやま話をしていました。ある日、お三婆は、お墨付きと短刀を宝沢に見せて、沢の井と赤ん坊を懐かしみ、赤ん坊が生きていれば、今頃、江戸の将軍さまの若さまとして幸せに暮らしていたものをとつぶやきました。このとき、宝沢の心に、悪だくみがこみ上げてきたのです。
 ある日、宝沢は、お三婆に酒を飲ませ、泥酔したところで絞め殺し、囲炉裏に落ちて焼け死んだように見せかけました。お墨付きと短刀を盗むと、寺に帰り、自分を育ててくれた寺の住職を毒殺して旅に出ました。
 宝沢は、旅をしながら機会を待ちました。旅の途上で仲間となった赤川大膳、その叔父の常楽院天忠、そして山内伊賀之亮も加わり、宝沢は天一坊と名を変えて、いよいよ、大芝居に打って出たのです。
 紀州で調査を進める越前の家来は、沢の井の実家を突き止め、そこからたどって、天一坊が宝沢である確証を得ました。この旨、早飛脚を立てて越前に知らせるとともに、証人二人を伴って、早駕籠を仕立て、急ぎ江戸に戻りました。
 こうして、天一坊一味の目論見は、消し飛んでしまったのでした。(浪)