【随筆】−「花盗人」                  浪   宏 友


 幸吉が寝ていたのは、飛鳥山でした。ここには、将軍吉宗公のお声がかりで全山に桜が植えられ、江戸庶民の憩いの場となっていました。その中に、吉宗公がお手ずから植えられた桜がありました。
 幸吉は、吉宗公の桜のそばで、桜の枝を握って酔いつぶれていたのです。どうしてそうなったのか、まったく覚えがありません。
 飾り職の幸吉は、その日、ご注文の品をお届けし、お屋敷の台所で上等のお酒をご馳走になりました。上機嫌で帰る道すがら、見知らぬ男に強く誘われて、酒をしたたかに飲まされたところまでは覚えているのですが、その後どうなったのか、まったく記憶にありません。そして、飛鳥山の桜の木の下で、叩き起されたのです。
 幸吉は、ぎりぎりに縛り上げられて、引き立てられ、南町奉行所に連れていかれました。
 取り調べに対して、私はそんなことはしていません、するはずがありませんの一点張りです。私は、一昨年、上様から孝行者としてご褒美をいただきました。それ以来、千代田のお城に足を向けて寝たことはございません。まして、上様お手植えの桜に手をかけるなど、出来ようはずがありません。
 全く身に覚えがないと言い張っていると報告を受けた大岡越前は、そのまま牢に入れておけと命じました。
 千代田のお城でも、上様お手植えの桜の枝を折った者がいるという噂で持ちきりでした。不埒な奴、手打ちにせよという者がいるかと思えば、たかが桜の一枝、そんなに大騒ぎすることか、百叩きにして放免してやれという者もいました。
 大岡越前は、困っていました。幸吉は、上様からお褒めいただき、孝行者として評判も高まっていましたから、これを妬む者によって陥れられたのではないかと考えましたが、それを証明することができません。そうであれば、幸吉を罰しなければなりません。しかし、どう罰すればいいのか見当がつきません。腹心の者に前例を調べさせましたが、何もありませんでした。
 大岡越前は、中国の典籍を調べることにしました。日本に前例がなくても、国土が広くて、裁判の歴史の長い中国なら、どこかに前例があるかもしれない、そう思ったからです。千代田のお城の今でいう図書館には、中国の典籍が数多く納められています。特別な許可を得て越前はここに通いました。しかし、どうしても見つけ出すことができませんでした。
 あまりにも熱心に通う越前を不思議に思った図書館の担当者が、越前に声を掛けました。越前は、ことの次第をかいつまんで話しました。なるほどとうなずいた担当者は、私も心がけておきましょうと言いました。
 それからしばらくして、あの担当者から連絡が入りました。前例があったというのです。すぐさま越前は、図書館に赴いて、前例に眼を通しました。
 越前は、牢に幸吉を訪ねました。すっかり憔悴して髪も爪も伸び放題でした。越前は、牢番に、幸吉に髪や爪を切らせてはならぬと申し渡しました。
 それからどれくらいたったでしょうか、ある日突然、お白州に、幸吉が呼び出されました。小さくなってかしこまる幸吉に、越前は申し渡しました。
 「花の一枝を折るものは、一指を切るという前例がある。これに倣って、お前の小指の先を五分(約一センチ半)切り落とす」
と、告げました。係りの役人が白州に降り、幸吉を手を見て奉行に言いました。
 「爪が長く伸びていて、それだけで五分ありますが、いかがいたしましょうか」
 「なに、爪だけで五分あると。致し方ない、爪を五分切り落とせ」
 こうして、小指の爪を五分切り落とされた幸吉は、こんこんと説諭されて、放免されたのでした。(浪)