【随筆】−「大岡越前の生涯」                  浪   宏 友


 大岡越前というと、私たちは、江戸南町奉行大岡越前のすがたを思い浮かべます。そして、数々の名裁きを思い出します。
 しかし、研究者によると、巷間に伝えられる大岡裁きは、ほとんど、大岡越前とは何の関係もない事件ばかりなのだそうです。他の人の名裁きが、いつのまにか、大岡越前の名裁きとして伝えられたものとか、中国における裁判話が装いを変えて大岡裁きとなったものなどだそうです。どうやら、江戸時代の戯作者や講談師の創作ではないかと考えられています。その意味では「登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません」とうことになると思います。
 大岡忠相は、江戸南町奉行を一生涯務めたわけではありません。そのあたりのいきさつを概観してみたいと思います。
 大岡忠相は、延宝5年(1677)、旗本大岡忠高の四男として誕生しましたが、兄が一人早世しているので、実質三男でした。
 10歳のとき、同族の大岡忠真のところに養子として入ります。24歳で家督を継ぎ、寄合に列せられます。
 元禄15年(1703)、26歳で御書院番に就きます。初めての役職でした。五代将軍綱吉の治世で、この年の12月に、赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入っています。
 翌元禄16年11月に、後に元禄大地震と呼ばれる巨大地震があり、大岡忠相は、その復興作業に精励しました。
 翌年の宝永元年には御徒頭にすすみ、宝永4年に御使番となり、翌宝永5年に御目付に転じます。
 そして正徳2年(1712)に、山田町奉行となります。ここで、当時、紀州家の部屋住みだった吉宗の目に止まったと思われます。山田奉行を4年ほど務めて江戸に呼び戻され、享保元年(1716)御普請奉行となりました。この年、7代将軍家継が亡くなり、紀州藩主徳川吉宗が、八代将軍となりました。そして、いよいよ享保2年(1717)、吉宗の命によって、江戸南町奉行となるのです。大岡忠相41歳のときでした。
 当時、町奉行を拝命する年齢は、通常60歳ぐらいでしたから、これは、異例の大抜擢と言えるでしょう。それだけ、吉宗の忠相に対する期待が大きかったことが分かります。実際、忠相は、吉宗在位35年間の行政で、支えとなり続けました。
 有名な業績のひとつに、小石川養生所の設立があります。
 吉宗の発案で作られた目安箱に、町医者小川笙船が、貧困者や孤独者のために施療院を建てることを提案する意見書を投入しました。吉宗は、これを取り上げ、大岡忠相に検討するように命じました。忠相は笙船を呼んで、構想を聞き、これをもとに検討を重ねて、小石川御薬園に小石川養生所を開設しました。
 この地は、現在は、小石川植物園となっていて、小石川養生所で使った井戸が残されています。また、御薬園を引き継いだ薬園保存園があります。
 大岡忠相は、60歳のときに、20年間務めあげた江戸南町奉行から、寺社奉行に昇進しています。しかし、庶民たちは、自分たちの身近な存在だった町奉行としての大岡忠相ばかりに眼が向いて、その後のことには、とんと無関心であったように思われます。
 忠相は、隠居することなく、生涯現役を通しました。隠居したくても、吉宗が許さなかったというのが実情のようです。吉宗としては、忠相を、いつまでも、自分のそばに置いておきたかったのでありましょう。
 吉宗は、寛延4年(1751)6月20日、68歳でこの世を去り、その6カ月後の宝暦元年12月19日、吉宗の後を追うように、大岡忠相が75年の生涯を閉じています。
 それから間もなく、南町奉行大岡忠相の名奉行ぶりが、巷間に語られはじめたと伝えられています。(浪)