【法華三部経を学ぶ その一】 一 仏 乗      浪   宏 友


【「乗」】

 法華経には、「乗」のついた言葉がいくつも出てくる。

 「小乗」「大乗」
 「三乗」「二乗」「一乗」
 「声聞乗」「辟支仏乗」「仏乗」
 「一仏乗」

 乗とは乗り物という意味だという。小乗は、小さい乗り物。大乗は大きい乗り物である。また、乗とは、目的に向かって修行する道のことであるという。
 声聞乗は、声聞の悟りを得るために歩む精進の道である。声聞の修行者は、須陀 、斯陀含、阿那含、阿羅漢と境地を高めていくという。
 辟支仏乗は、辟支仏の悟りを求めて歩む道である。辟支仏は縁覚とも言う。
 仏乗は、仏陀の悟りを求めて歩む道である。仏陀の悟りを阿耨多羅三藐三菩提と言い、ただ菩提ともいう。仏乗は、だから、菩提を求めて歩む道であると言うことができる。菩提を求めて修行している人を菩提薩、略して菩薩という。菩薩の修行には段階があって、第一地から第十地へと登って行くのだという。
 法華経には 菩薩乗という言葉が出てこない。そのことに気付いたのは、法華経を学び始めてずいぶん経ってからであった。何故だろうと首を傾げていたのだが、仏の悟りを求めて精進している人、すなわち仏乗を歩んでいる人を菩薩というのであった。
 しかしながら菩薩乗という言葉は、多くの人々が口にしている。言葉というものは、内容が正しく伝わればいいのだから、あれこれ言う必要もないであろう。
 私自身は、菩薩乗という言葉は使わずに、仏乗という言葉を使いたいと思う。その方が、正しい内容を伝えやすいと思うからである。

   

【大乗と小乗】

 声聞乗・辟支仏乗は小乗であるという。どれくらい小さいのかと思ったら、どうやら一人乗りということであるらしい。自分一人の悟りのために精進しているのが小乗であるということらしい。
 小乗の悟りを得た人は、真理の道を歩けるようになった人である。身の回りの現象がどのように変化しようとも、真理の道から外れることがない人である。怒ることもない。欲張ることもない。わがままを言うこともない。人に迷惑をかけるようなこともない。そのような人になるのは、並大抵ではない。だから、小乗の修行といい、小乗の悟りと言っても、決して低いものではない。
 仏乗は大乗である。小乗が一人乗りなのに対して、大乗は複数の人々を乗せることができる乗り物という意味であるらしい。自分ひとりではなくて、他の人々も一緒に救われ、一緒に悟りへ歩むための精進の道である。
 しかし、よくよく注意してみると、大乗の修行をしているということは、大きな乗り物のお客さんになっているという意味ではないようだ。大きな乗り物の運転手でなければならないようだ。人々を救いつつ自分も救われる道、人々を悟りへ導きつつ自分も悟りへ向かう修行、それが大乗なのであろう。

   

【法華経が明かしたもの】

 二乗というときは、声聞乗と辟支仏乗を指している。三乗は、それに仏乗が加わったものである。
 法華経が説かれるまでは、声聞乗、辟支仏乗、仏乗は、それぞれ別の目的に向かっている別々の道であると理解されていた。相対的な道であった。それゆえ、三乗と言われてきたのであろう。
 法華経にきて、事態は一変した。方便品に次の経文がある。

《舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生のために法を説きたもう。餘乗の若しは二、若しは三あることなし。(妙法蓮華経方便品)》

 声聞乗も辟支仏乗も仮の修行目標だったんだと、釈尊は言う。本当の修行目標は仏乗しかない、と。声聞乗、辟支仏乗の修行をしていた人々も、実はしらずしらずのうちに仏乗を歩んでいたのだ、と。
 人間のすべてが仏陀の悟りを悟りうるのだから、なんとか悟らせてあげたい、釈尊はそのように願い、そのように導こうと努力していたのだ。法華経はそう語り明かした。
 釈尊の本当の願いに目覚めた修行者たちは、これから、自分の歩む道は仏乗であると知って、仏乗を歩きはじめた。
 法華経におけるこの説法は、それまでの修行者たちの観念を根底からくつがえす大事件であったに違いない。方便品に、五千人の仏弟子が座を後にしたという表現があるが、修行者たちの戸惑いを物語っているのであろう。

   

【釈尊の工夫】

 法華経に、次の経文がある。

《爾の時に諸の梵王 及び諸の天帝釈 護世四天王 及び大自在天 并に餘の諸の天衆 眷属百千万 恭敬合掌し禮して 我に轉法輪を請す 我即ち自ら思惟すらく 若し但仏乗を讃めば 衆生苦に没在し 是の法を信ずること能わじ 法を破して信ぜざるが故に 三悪道に墜ちなん 我寧ろ法を説かずとも 説く涅槃にや入りなん 尋いで過去の仏の 所行の方便力を念うに 我が今得る所の道も 亦三乗と説くべし(妙法蓮華経方便品)》

 成道したばかりの釈尊が、自ら悟り得た法を、衆生のために三乗に分けて説こうと決心するに至った経緯が描写されている。
 釈尊が悟った法に至る道は、仏乗である。しかし、人々に仏乗を説いても理解出来ないであろう。仏乗の修行に入って菩提薩 となることが出来る人々はほとんどいないであろう。
 いや、仏乗に入れないだけで済めばまだ良いのだ。仏乗の教えを聞いた人々が、教えに疑いを持ったり、教えを恨んだり、教えに反感を持ったり、わざと教えに背いたり、教えや教えを説く釈尊を迫害したり、或いは教えを悪用したりする人々が、数多く出てくるに違いない。本来、人々を悟りに導き、幸せを実現するはずの教えが、かえって人々を三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に追いやることになる。そんなことなら、教えを説くことなく終わろうとまで、釈尊は考えなければならなかった。
 しかし、さらに考えを進めた釈尊は、仏乗に耐えきれない人々のために声聞乗と辟支仏乗を用意して、三乗に分けて説くことにした。本当は仏乗しかないのに、人々にはそれを隠して、入りやすい修行の道を掲げたのであった。
 仮とはいっても、その内容は仏乗にほかならない。声聞乗・辟支仏乗の修行をすれば、人々の力が上昇する。人々が仏乗に耐えきれる力を獲得したとき、改めて仏の悟りに導いてあげようという釈尊の計画がそこにはあった。そのことが、法華経の方便品で明らかにされたのであった。
 このように検討してくれば、釈尊の教えは初めから仏乗しかなかったことが分かる。声聞乗・辟支仏乗の二乗は、阿耨多羅三藐三菩提という本当の目的地に至る道筋の途中にしつらえられた、仮の目的地であった。妙法蓮華経化城喩品によれば、休憩所のようなものであったと言うことも出来る。
 声聞乗・辟支仏乗・仏乗という相対的な観念から、たったひとつの仏乗という絶対的な事実への大転換を成し遂げたのが、法華経であった。

   

【真実の人生】

 人にはそれぞれの生き方がある。十人いれば十通りの、百人いれば百通りの、千人いれば千通りの生き方がある。
 そのように多様な人々の多様な生き方の、それぞれの真実を極めていけば、結局ひとつの生き方に突き当たる。それが、法華経に説かれた菩薩の生き方である。
 法華経に説かれた菩薩の生き方をそれぞれの人がそれぞれに展開したとき、十通り、百通り、千通りの真実の生き方が実現するであろう。それが本当の人生を生きることであり、本当の幸せを味わう道である。
 では、法華経に説かれた菩薩の生き方とは、具体的にどのようなものなのであろうか。そして、それは、どのような意義を有するのであろうか。
 この問いに普遍性のある回答を与え得なければ、法華経が人類にとって有用な教えであるということにはならない。
 多くの宗教の教えと活動が、人類的規模においては普遍性を持ち得ないために、争いの元となり、戦争の原因となっている。この宗教は正しく、他の宗教は邪教であるというような相対的な態度では、人類的普遍性を見いだすことは不可能である。
 では、法華経に説かれる菩薩の生き方は、人類的な規模において普遍性を持ちうるのか。
 この問いの回答を求めて、私は勉強を進めたいと思う。

   

【庭野日敬師の教え】

 ここに来て、私は気付いた。私が心から敬愛する庭野日敬師は、仏陀釈尊と同じことをしていた。私もまた、日敬師の導きをいただいて、今、このような原稿を書くことが出来るようになった。この紛れもない事実を私は注視しなければならない。
 日敬師は、立正佼成会を創立して、人々に法華経を説いた。しかし、法華経を学問のように説いたのではない。師は、人を救い世を救うために、現実と真正面から取り組んだのである。
 法華経の教えに感銘し、法華経を深く学んだ師は、始めから人々を仏陀の悟りに導こうとした。しかし、人々に直接「あなたも菩薩の修行をして、仏陀になりなさい」とは言わなかった。言っても理解してもらえないからである。
 妙法蓮華経常不軽菩薩品に、次のようなことが記されている。
 常不軽が市井の人々に向かって、「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と呼びかけると、中には腹を立てて杖や石でなぐりかかる人がいたという。
 日敬師が、直接仏乗を説いたとしたら、なぐりかかってくるのはまだ脈があるほうで、なんの反応も示さない人がほとんどだったのではなかろうか。
 師は、先ず、苦悩する人々に向かって、苦悩を解決する道を説いた。苦悩から救われたい一心の人々は、師の教えに従って修行した。そして、苦悩を解決した。人々は苦悩から救われたと言って喜んだ。
 ところが、師が説いた「苦悩を解決する道」は、その内容を吟味すれば「仏陀の悟りへ向かう道」にほかならなかったのである。人々の人格を向上させ、人格の完成へと導く道を、師は説いていたのである。
 人々が師の教えに従って修行し、苦悩が解決し、救われたと言って喜んでいるとき、人々は、自分自身の人格が向上していることに気付かなかった。仏陀の悟りへ向かって、大きな一歩を踏み出していることを知らなかった。
 人々は、苦悩が解決したことを救われたと言った。しかし、師の本心から言えば、人格が向上したことこそ救いの本質であったのだ。苦悩の解決は、人格が向上したことに付随する当然の現象だったのである。
 師は人々に、法座修行を勧め、導き手取りの修行を勧めた。
 法座修行で、自分自身と取り組みつつ、導き手取りの修行で人々を教えに導く努力をする。これは、まさしく菩薩の修行ではないか。師は、いつしか人々を法華経が説く一仏乗の菩薩の修行に導いていたのである。

   

【釈尊と日敬師】

 釈尊は人々に声聞乗の修行、辟支仏乗の修行を勧めたが、その内容は仏乗にほかならなかった。
 日敬師は、人々に目前の苦悩との取り組みを説いたが、その内容はやはり仏乗であった。
 釈尊の弟子たちは、法華経の説法を聞いて、自分もまた仏乗を歩んでいることを知った。それからは、自分は仏乗を歩んでいるのだと自覚して、菩薩の修行をするようになった。
 日敬師の教えによって苦悩を乗り越えた人びとの中に、教えの本質を悟った人びとが少なからずいた。その人びとは、修行の本当の価値を知って、修行に勤しむようになった。
 釈尊は、自覚して仏乗を歩むようになった人びとに向かってさらに呼びかけた。世間には迷い苦しんでいる人びとが溢れている。この人びとに向かって教えを説き、この人びとを仏乗に導いてあげてほしい、と。釈尊のこの願いに呼応して、弟子たちは立ち上がった。
 日敬師もまた、目覚めた人びとに対して、本質的な救いに人びとを導くようにと呼びかけた。それに呼応して、人びとに教えを伝え、人びとを苦悩から救い、更に本質に目覚めさせるべく、献身している人びとが少なからず存在している。
 このようにして日敬師は、釈尊がなさったことをそのまま、現代に実現したのであった。
 私は、ある時期、日敬師は仏陀であると確信した。そして、私自身もまた、仏乗を歩む修行者でなければならないと自覚し、真の菩提薩 としての努力を心掛けるようになった。私のような者が、そのような境地に目覚めたのは奇跡と言っていい。日敬師ご入寂の後、十六王子の一人として、師のご恩に少しでも報いたいと、私は、今、願っているのである。

   

【正しい信仰】

 信仰を病院になぞらえる学者がいた。苦悩を解決するために信仰に入り、解決すると出ていく。信仰は苦悩を解決する病院になっている、と。まさしく苦しいときの神頼みである。このような人びとは、神さまや仏さまが、苦悩を取り払ってくれるものと思っているらしい。
 自分の苦悩を解決できるのは、自分自身だけなのである。信仰に入り、教えを聞き、教えの通りに実践をすることによって、自分自身の苦悩を解決することができる。
 巷の信仰の多くが、しかし、神さま仏さまが苦悩を取り払ってくれるのだと説く。そのためには、お賽銭を沢山あげなさい、と。
 友人に剽軽な男がいて、神社を参拝したあと、「一千万円儲けさせてくださいって拝んできたよ」という。「お賽銭はいくら上げたんだい」と聞くと「百円」。それじゃ、神さまも割りが合わないよと、笑ったのであった。
 彼は続ける。「あのお賽銭を神さまは何に使うのかなあ」
 お賽銭を神さまが使うわけがない。お賽銭を使うのは神さまを祀っている神社の宮司さんじゃないか。宮司さんがあのお賽銭で歌舞伎町に行って飲んじゃったら、神さまのご利益はどうなるんだろう。彼は彼らしく剽軽に心配していた。
 法華経の教えは、神さま仏さまに拝んだりお賽銭を上げたりして救ってもらえというものではない。ただ、仏乗を歩けというものである。人間としての正しい生き方、調和のとれた生き方を身につけることを勧めているのである。
 間違った生き方をしていたために生じた苦しみ悩みは、正しい生き方をすれば消えてなくなってしまう。それだけの話なのである。
 正しい生き方を知らない人、知っていてもその通りに出来ない人は、迷いが生じ、悩みが生じ、苦しみが生じたとき、正しい対処ができない。だから、苦悩は解決できない。
 正しい生き方を知り、正しく生きて行ける人は、正しい対処が出来る。だから、苦悩を解決することができる。
 更に、正しい生き方は本当の人生を生み出し、本当の生き甲斐を生み出してくれる。
 庭野日敬師は、このことを人びとに知らせ、正しい道を歩んでもらいたいために、身を粉にして、教えを説き続けたのであった。
 日敬師は、こうして法華経に説かれている一仏乗の菩薩を現実のものとした。この事実を世界中の宗教指導者が称賛した。このことは、法華経に説かれている菩薩の生き方が、人類的な規模で普遍性を持っていることを示唆するものではないだろうか。