【法華三部経を学ぶ その二】 願生と業報      浪   宏 友

 法華経には、法師品に「願生」という思想が説かれている。願生とは、自分の願うところに生まれることができるということである。どこに生まれても、そこは自分が望んで生まれてきたところであると受け取るのが願生である。だから、自分の置かれた境遇に文句を言わない。それどころか、その境遇の中で積極的な人生を生きようと努力する。このような人は真に自立した人生を送ることができる。どこにいても、自分自身の存在価値を思う存分発揮することができる。
これに対して、「業報」という思想がある。自分の意思や願いとはかかわりなく、過去の行いの結果として生まれるところが定まるというのである。どこに生まれても、自分が望んだところではない。頼みもしないのに勝手に生みやがってなどと親に文句を言ったりする。なんで、自分ばかりが苦労しなくちゃならないんだと愚痴ばかりがでる。そのような人々には真の自立がない。周囲の事情に振り回され、人々の言葉や動きに右往左往して日々を送りつつ、一生を終えるような人生になってしまう。
 人は、なぜ、業報の人生を送ることになってしまうのだろうか。世間の人々は、現象に心を奪われてしまい、真の人間として生きることを忘れていることが多い。このために人々の心は荒れたり、固まったりしている。先入観や固定観念で人々を差別的に見ては、差別的な扱いをする。欲に固まった心は、見境のない行動を自らに取らせる。怒りに荒れた心は、人々の和を破壊し、争いを生み出している。身勝手やわがままは雑草の如く、真の実りが育つのをさまたげている。怠惰な心は、幸せの実りを求めることがない。努力はしたくない、幸せだけ欲しいなどと言っても、そんな勝手な願いが実現することはない。
 このような人々は、実ることのない願いを立てている。あるいは願いを実現する道を歩まない。これでは、自ら望む境遇を得ることはなく、望まぬ境遇ばかりに遭遇してしまうであろう。これが業報の実態である。
釈尊の教えでは、まず業報から解脱することが修行者の目的となる。これだけでも、人生は見違えるほどの変化を受ける。しかし、まだ真実の人生を歩んでいるとはいえない。業報から解脱したのち、願生に目覚め、より高い価値に向かって創造的に前進してこそ、真実の人生が実現する。これが、釈尊が我々にすすめてくれた修行のあり方なのであった。
法華経に説かれている三乗と一仏乗は、そのような関係において説かれた教えであると考えられる。
 業報からの解脱としての三乗と、真実の人生としての一仏乗。そのように理解してこそ、法華経の真意を把握できるのではあるまいか。

   

【バーラドヴァージャの問い】

ここに興味深い経文がある。中村 元訳『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫)蛇の章の「田を耕すバーラドヴァージャ」という節である。ここに、釈尊と田を耕すバラモン・バーラドヴァージャとのやりとりが記されている。早速、経文に入ってみよう。

《わたくしが聞いたところによると、−−あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。》

この土地に、財産家のバラモン、バーラドヴァージャがいた。バーラドヴァージャは、早朝、田を耕すために支度をしていた。

《そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、種を播く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。》

これは大変な数である。この仕事に携わる人々も、かなりな人数だったに違いない。さぞかし、ごった返していたであろう。

そこへ、釈尊が現れたのである。

《そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャが仕事をしているところへ赴かれた。》

ここで、釈尊はわざわざ早朝に身支度を整え、バーラドヴァージャのもとに向かっている。バーラドヴァージャにしても、朝の一番忙しいときに釈尊の訪問を受けたことになる。
これらの状況から推察すれば、釈尊がバーラドヴァージャのところにたまたま来あわせたのではないことがわかる。バーラドヴァージャを教化するために一番効果的な時をみはからったのであろう。

《ところでそのときに田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは食物を配給していた。》

バーラドヴァージャは、人々に朝食を配っていた。五百梃の鋤を牛に結びつける人数の朝食である。これだけでもひと仕事だったに違いない。釈尊は、そこへ近づいて行った。

《そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは師が食を受けるために立っているのを見た。》

伝え聞くインドの風習によれば、出家が食を求めて立っているのをみれば多くの人々はすぐに供養をするという。ところがバーラドヴァージャは釈尊に向かって、次のように言った。

《そこで師に告げていった、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え」と。》

バーラドヴァージャは多忙だったために、腹立ち紛れにこう言ったのだと解する人もいるが、そうではないであろう。バーラドヴァージャの、これが、本心だったに違いない。
バーラドヴァージャは産業を担う人である。勤労したのち、その報酬として食事をすることができると語っている。日本にも、働かざるもの食うべからずという言葉がある。バーラドヴァージャが真面目なはたらきものであり、世間の成功者の一人だったのだろうことが伺われる。
しかし、釈尊の目からは、バーラドヴァージャの生き方は、真の人間らしいものとはなっていなかった。

   

【釈尊の答え】

釈尊は、バーラドヴァージャに向かって言った。

《(師は答えた)、「バラモンよ、わたくしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。》

いよいよ釈尊は、バーラドヴァージャを教化するために語りはじめた。その言葉は、バーラドヴァージャが使っていた言葉である。相手の言葉を利用して、問題を提起している。
 バーラドヴァージャは、戸惑った。戸惑いながらつぶやいた。

《(バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う』という」と。》

 釈尊は確信をもって、自分は耕しているという。しかしながら、釈尊は産業に必要なものはなにひとつ携えていない。そればかりか、いままで、釈尊が耕作していた現場を見たこともなければ、話を聞いたこともない。いままさに耕そうとしているバーラドヴァージャには、聞き捨てならない言葉であった。
 バーラドヴァージャは、態度を改めて、釈尊に説明を求めた。

《そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは詩を以て師に呼びかけた。
76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします、−−あなたが耕作するということを、われらが了解し得るように話してください。」》

 バーラドヴァージャの釈尊への問いかけには、茶化すとか、皮肉るというような態度は見られない。バーラドヴァージャは、真剣であった。
ここで発せられた釈尊の回答は、バーラドヴァージャには予想外のものであった。

《77 (師は答えた)、「わたしにとっては、信仰が種子である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。
78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって〔牛の〕軛を離すことである。
79  努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす。この耕作を行なったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」》

産業は人間の営みのひとつである。バーラドヴァージャは人間の営みの次元で話をしている。ところが釈尊の答えは、人間の営みを突き抜けて、一気に人間の本質に迫っていた。次元がまったく違っていたのである。
釈尊のこの言葉から、次のような対比を抽出することができる。
信仰=種子。苦行=雨。智慧=軛と鋤。慚(はじること)=鋤棒。心(真理に沿おうとする心)=縛る縄。気を落ちつけること=鋤先と突棒。真実をまもること(身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない)=草刈り。柔和=牛の軛を離すこと。努力=軛をかけた牛。
このように分析して、ひとつひとつの意味をたずねれば、ここにもまた深い意味内容を読み取ることができるであろう。なお、このような対比は、固定して考えてはならないと思われる。この場面において、バーラドヴァージャを教化するために使った仏陀の方便であるから、バーラドヴァージャが得心できるように当てはめたと考えてよい。相手が変われば、当てはめ方も変わってくるであろう。それが、対機説法の機微である。

   

【釈尊の耕作】

さて、釈尊の耕作は、人生の現場において行われている。人生を畑とし心を田として行われている。
 釈尊の耕作は、人生の現場において、真の人間として生きるために、自分自身の心を整えたり、身を整えたりすることであると見ることができる。
仕事に心を奪われているバーラドヴァージャもまた、真の人間として生きることを忘れているひとりであった。そのようなバーラドヴァージャに対して、釈尊は自分を耕すことすなわち、真の人間として生きるを指し示したのである。
「努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない」
安穏の境地とは、涅槃のことである。涅槃とは、世間の毀誉褒貶に惑わされずに、安らかな心で、日々真実を歩みつづけることである。だから、涅槃に至れば憂えることがない。
 「この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす。この耕作を行なったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる」
 涅槃の味は、甘露の果実のようである。甘露は不死を意味するという。不死とは、変化を超越することであろう。すなわち、世間がどのように変化しようとも、人々がどのような態度をとろうとも、振り回されることなく、生きるべくしていきている姿であろう。
多くの人々は、さまざまな苦悩に襲われ、囚われる。苦悩を解決しようとして、新たな苦悩を生み出している。このような繰り返しをして一生、苦悩から抜け出すことができない。
涅槃に至ると、苦悩に遭遇しても囚われることがない。どんな場合でも現象に引きずり回されずに、真の人間として生きることができるようになる。こうなれば、あらゆる苦悩から解放され、自由自在な毎日を送ることができる。

釈尊の耕作は、生きているという事実そのものを田畑として、このような果実を得るためになされるものなのである。
   

【バーラドヴァージャの回心】

バーラドヴァージャは、釈尊の説法を聞いて、その意味するところを了解した。たちまち釈尊に対する敬服の心が沸き上がった。早速威儀を改めて、供養を捧げるために立ち上がった。その心は感動に満ちていた。

《そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。−−「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですから。」》

バーラドヴァージャのこの回心こそ、釈尊の願ったものであった。しかし、釈尊はバーラドヴァージャの信仰心を更に深め、また確かなものとするために、教えを説きつづける。

《81 詩を唱えて〔報酬として〕得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活なのである。》

法を説いた報酬として、食物を捧げたということになれば、これは報酬である。供養ではなくなる。供養はただ感謝と尊敬のまごころで捧げるものである。勤労と報酬の世界に生きてきたバーラドヴァージャは、知らず知らずに、説法に対するお礼という心がはたらいていたであろう。これでは報酬になってしまう。それでは功徳が現れない。この心を改めさせ、バーラドヴァージャに功徳を得させるためには、釈尊は乳粥を受け取ってはならなかった。
 多くの信仰が、献金をすれば御利益があると説くが、それは誤りである。御利益はお金で買うものではない。真の人間として生きることによって自ずから得られるものなのである。多額の献金をする人が幸せになると説く信仰は、人間らしい生き方を否定する邪悪な信仰であると断言することができよう。

《82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。》

仏陀に供養すれば、功徳を積むことができる。功徳とは功能福徳であると言われる。功能とは、人々を幸せに導く能力であると考えられる。福徳とは、人々を調和に導く人徳であると考えられる。
 仏陀は、効能福徳を完全に備えた最高の人格である。まごころからの感謝を込めて仏陀を供養することによって、このような徳が自ずから身についてくる。真の信仰者は、仏陀の人格に触れ、感化を受けて、努力を続けるようになる。供養とは、そのような心の現れとしての行為である。
 我々の目の前に、仏陀という尊い人格が存在するから、供養が出来て功徳を積むことができる。まさしく、仏陀は、功徳を積もうとする者のための福田となっている。
バーラドヴァージャは、説法に対する報酬をささげてはいけない。他の飲食をささげなければいけない。他の飲食とは、ただ純粋なる尊敬と純粋なる感謝によって捧げる飲食である。そのような供養こそ、供養する人に真実の功徳を生む。バーラドヴァージャは、得心して素直に引き下がった。

   

【乳粥の行方】

しかし困ったことが起きた。バーラドヴァージャの手元には乳粥が残っている。これをどうすればいいのか分からない。

《では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?》

釈尊は、ここで、不思議な教えを説いている。

《バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)とかれの弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。》

乳粥は人間が食するものであるから、もともと俗なるものである。しかし、この乳粥は仏陀に捧げられた飲食であるから聖なるものとなっている。聖なる性質と俗なる性質とがひとつになっている乳粥がそこにある。
神々は聖なるものは食べることができても、俗なるものは食べられない。人間は、俗なるものは食べられるけれども、聖なるものは食べられない。聖と俗とがひとつになっている飲食を食することができるのは、仏陀か、仏陀の弟子だけである。そのように釈尊は語っているのである。
釈尊の言おうとしているのは、現実を生きる人間の理想的な姿である。俗なる社会の中で聖なる人生を送りつづける。煩悩を持ちつつも煩悩に左右されずに真実の道を生きていく。このような生き方ができるのは仏陀であり、仏陀と同じ悟りを求めて精進を続けている仏陀の弟子たちだけなのである。

《だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少ないところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。》

 仏陀は、聖と俗とがひとつになっている乳粥を、生き物のいないところに棄てなさいと言っている。
 生き物のいないところとは、バーラドヴァージャの心の中であろう。真実の芽生えがない心の中を、生き物がいない場所と釈尊は言っている。真実が芽生えていない心の中に、聖と俗がひとつになった乳粥を飲ませなさいと釈尊は勧めているのである。乳粥はもちろん法にほかならない。真の法は、現実において真実を生きる道を説くものである。

《そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャはその乳粥を生物のいない水の中に沈めた。
さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを出した。》

バーラドヴァージャは、乳粥を生き物のいない水の中に沈めた。生き物のいない水の中とは、バーラドヴァージャの心の中である。バーラドヴァージャは法という乳粥を自分の心に沈めた。仏陀の法を受けたバーラドヴァージャは、今まで経験したことのない激しい感動を味わった。
それまでのバーラドヴァージャの心の中には、生き物がいなかった。一生懸命にはたらいてきたけれども、そして財産を蓄えたけれども、心のなかは不毛であった。出家を大切にするというインドの地において、出家に供養をささげるどころか、鋤や鍬を持って働けと厳しく咎めているところにも心の不毛が現れている。形のあるものばかりを追いかけて、真実の価値には目を向けようとしなかった人の姿がそこにはある。
そのような心では、バーラドヴァージャの折角の努力が、結局は実を結ばない。これを心配した釈尊が、バーラドヴァージャを真の人間に目覚めさせようとして、このような方便を使い、このような法を説き、このような不思議を現したのだ。

   

【バーラドヴァージャの解脱】

《そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは恐れおののいて、身の毛がよだち、師(ブッダ)のもとに近づいた。そうして師の両足に頭を伏せて、礼拝してから、師にいった。−−−「すばらしいことです、ゴータマさま。すばらしいことです、ゴータマさま。譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すいように、あるいは『目ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。また真理と修行僧のつどいに帰依します。わたくしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けましょう。」》

感動に打ち震えたバーラドヴァージャは、仏陀に縋り付くようにして訴えた。出家させてください、と。莫大な財産があっても、真の人間として生きてはいなかった自分に気づいたバーラドヴァージャ。法に生きることの素晴らしさに気づいたバーラドヴァージャ。彼はたちまち煩悩を追い求める人生を棄てて、真実を歩む人生を求めはじめたのである。
釈尊は直ちに出家を許した。

《そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、師(ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。》

バーラドヴァージャは出家して、修行者の一人としての戒、教団の一員としての律を学び、実践しはじめた。世俗のときもはたらきものであった彼は、出家してもまた、怠けることなく修行に励んだのである。一心に精進したバーラドヴァージャの修行の深まりは目ざましいものであった。

《それからまもなく、このバーラドヴァージャさんは独りで他の人々から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極−−諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが−−を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。》

こうして、バーラドヴァージャは、修行の目的を達成することができた。真の人生を送ることができるようになったバーラドヴァージャは、自分が至ることのできた境地を深くかみしめた。

《「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」とさとった。そうしてバーラドヴァージャさんは聖者の一人となった。》

 バーラドヴァージャの人生は、こうして、根本的に転換した。
   

【真の生き方】

 ところで、この経文の表現では「再びこのような生存を受けることはない」となっている。これを浅く受け取れば、人間として生まれてくることはないということになる。苦しみ多い人間という存在を逃れて、安楽な極楽に生まれて幸せに暮らせるということなのであろうか。しかし、真実の人生を求める釈尊が、逃避的な法を説くはずがない。
 釈尊は妙法蓮華経において、現実の社会における普通の生活の中にありながら、世間に惑わされず、人々の言葉や姿に振り回されずに、真実の人生を歩む道を明らかにしている。
 では「生まれることは尽きた」とか、「このような生存を受けることはない」という言葉は、何を意味するのであろうか。
 もちろん、これは業報としての生存が尽きたことを意味し、業報としての生存を受けることがなくなったことを意味しているのだ。このような修行者が再び人間として生まれてくるとすれば、それは冒頭に述べた願生なのである。
 いや、改めて生まれ直すまでもない。とりわけ在家の修行者は、世間の状況や周囲の人々の姿に振り回されずに生きられるようになったからには、更に一歩をすすめて、願生の人生に切り換えるべきである。人々と和になった人生、価値あるものを生み出す努力をしている人生、そこに真の人間としての生き方があるからである。
 乾いて固くなった自分の心を耕して、真実の人生を歩めるようになる。それが釈尊の言う心の耕作である。一人ひとりが自分の心を耕作し、真の人間として生きることが出来るようになることを、釈尊は願っているのである。