【法華三部経を学ぶ その三】 普 遍 性      浪   宏 友

   

【迷った人】

 多くの人々とつきあっていると、それぞれの人がそれぞれの哲学を持ち論理を持って生きていることが明らかである。それらの哲学や論理は当人にとって都合のいいものであるという特徴がある。他人は彼の理不尽な哲学と論理によって、しばしば大きな迷惑をこうむっている。つまり彼の哲学や論理は普遍的ではない。ありていに言えば間違っている。  このように普遍性を欠いた哲学や論理を後生大事にしている人々は、多くの場合他の人々の哲学や論理を認めようとしない。それどころか自分の哲学や論理を正しいものとして、人々がこれにひれ伏すことを要求する。普遍的な思考方法や論理であっても、彼の前では二束三文である。  こうして人々は普遍性を欠いた自分の哲学によって道に迷い、普遍性を欠いた自分の論理によって自分自身を不幸へと追いやっている。しかも多くの人々がその事実に気付かない。  このように間違った哲学、間違った論理で生きている人を迷った人というのであろう。  このように、身勝手な哲学を持ち、身勝手な論理を振り回す人々は、自分の生き方を個性的な生き方であると自負している。しかしながら彼は身勝手に、人々に迷惑をかけて生きているに過ぎない。笑止である。    

【十如是の法門】

 われわれの身体も、心も、私たちの周囲のものごとも、地球上のあらゆる存在と現象も、そして無限に広がる大宇宙も、すべて縁起によって生じ、動き、滅していると釈尊は喝破した。  妙法蓮華経の方便品にある十如是の法門は、縁起観を実に巧みに表現した理論である。  十如是の法門は実に多くの顔を持って我々に語りかけてくる。冷徹な哲学の顔をすることがある。あらゆる現象を解明する科学の顔をすることがある。高い芸術を生み出す根源を教えてくれる。  十如是の法門は人と人との建設的なお付き合いの仕方を教えてくれる。お金に困ったときや病気になったときの生活の仕方を示してくれる。人間万般に適切なコメントを与えてくれる。  十如是の法門はまさしく普遍的な哲学であり普遍的な論理である。われわれは、十如是の法門に現された哲学と論理を活用して、豊かな人生、充実した毎日を築き上げることができる。しかも、そのようにするとき、われわれは最も個性的な存在になることをも、十如是の法門は示している。本当の個性は、普遍性に支えられてこそ発揮できるということが、ここで明らかになっている。    

【妙法蓮華経の手法】

 釈尊は普遍的な真理とも言える縁起観を発見し、自ら体得したのであるが、ここで大きな問題にぶつかってしまった。身勝手な哲学を持ち、身勝手な論理を振り回す人々に、縁起観を語っても一笑に付されたり、踏みにじられたりすることは明らかである。しかしながら、人々は縁起観を体得しないかぎり、苦悩から救われることはない。  釈尊は人々を救いたい一心で苦心工夫して縁起観を説いた。その様子が妙法蓮華経に彷彿としている。  妙法蓮華経では、方便品から授学無学人記品までを迹門の正宗分としている。この八つの品をさらに三つに分けて、法説周、譬説周、因縁周としている。  法説周とは、教えを理論的に説いた部分で方便品の全部と譬喩品の始めのところまでである。  譬説周とは、譬えを通して教えの真意を悟らせようとするもので、譬喩品の法説が終わったところから、授記品までである。  因縁周とは、説法をする仏と説法を聞く我々とは過去から深いつながりがあることを語って法を聞き修行をすることの意義を悟らせようとするもので、化城喩品から授学無学人記品までである。  また法華経では,多宝塔などの表現によって形のないものを形のあるもので表現するいわゆる象徴の手法を使っている。  こうしてみると妙法蓮華経は理論的に説いたり、譬えを使ったり、過去の実例を上げたり、あるいは象徴の手法を駆使したりしながら、普遍的な哲学や論理を、すべての人に分かりやすいように説こうと苦心工夫していることがわかる。    

【普遍性の根源】

 普遍性の根源はどこにあるのか。妙法蓮華経はこの困難な問いにも鮮やかに回答を与えている。それは、如来寿量品に説かれている教えである。  ここの表現を検討すると、釈尊は遥かな昔に悟りを開いたという。釈尊はそのときから私たちに教えを説き続け現在に至っているという。さらには、今後もずっと私たちのために法を説き続けるという。このおとぎ話みたいな表現は、私たちに何を伝えようとしているのであろうか。  このおとぎ話みたいな話を事実であると受け取るところに妙法蓮華経の信仰の妙があると、私は信じている。この話を事実として受け取れば、私たちもまた遥かな昔から現在まで生きとおしの存在であり、未来永遠に生き通しの存在であると理解できる。しかも、永遠の仏である釈尊に教えられ導かれていると理解し信じることができるのである。従って永遠の生命を持った釈尊の言葉通りに生きていけば、私たちは真実の人生を歩むことが出来るのだと、如来寿量品が語っていると確信することができるのだ。  すべての人がそうなのだと如来寿量品は述べている。私はそう理解している。だから、すべての人が永遠の生命を持った釈尊の言葉通りに生きていけばいいのだ、と。  具体的には縁起観によって生きて行くことである。妙法蓮華経の十如是の法門は,縁起観によって生きて行くために説かれたものなのである。  改めて縁起観を思索吟味してみると、私たちの生命の実相が見えてくる。それは、まさしく如来寿量品に説いてある通りの姿である。私たちに法を説きつづけている永遠の如来とは、縁起の法にほかならないことがふつふつと感じられてくるのである。その感じは親に抱かれているような快さであることがまた一段と不思議である。