【法華三部経を学ぶ その四】 「魔」について      浪   宏 友

 妙法蓮華経の安楽行品に、「魔」という言葉が出てくる。

経文=文殊師利、如来も亦復是の如し。禅定・智慧の力を以て法の国土を得て三界に王たり。而るを諸の魔王肯て順伏せず。(注1)

 法すなわち真理に沿って生きるには、禅定と智慧の力が必要である。その禅定を乱し、智慧を曇らせようとするのが「魔」である。  増谷文雄博士が著された『阿含経典(第二巻)』に、長老ラーダが釈尊に「魔」について直截な質問をした経文がある。

経文=「大徳よ、魔羅、魔羅と仰せられますが、大徳よ、いったい、なにを魔羅となされるのでございますか」(注2)

 「魔羅」とはいったい何かという率直な疑問を釈尊にぶつけたのである。これに対して釈尊は次のように答えられた。

経文=「ラーダよ、色(肉体)は魔羅である。受(感覚)は魔羅である。想(表象)は魔羅である。行(意志)は魔羅である。識(意識)は魔羅である。」(注3)

 肉体・感覚・表象・意志・意識といえば、人間の肉体と心のすべてであり、人間存在そのものである。人間存在そのものを釈尊は「魔」と言っているのだ。これを文字通りに受け取れば、人間は魔の固まりであって、救いようがないということになる。しかし、釈尊の言いたいことはそうではない。  人びとは、肉体の欲望(性欲・食欲など)を貪り、感覚の欲望(見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる)を貪る。自分が思い描いたこと(表象)を貪り、自分がしたいと思ったこと(意志)を貪る。そして自分が存在していることを確認したい(意識)ために家族・友人・恋人などの愛情や関心を貪る。  貪りの生活・人生は、結果として周囲の人や状況に振り回されるだけの主体性のないものとなる。貪りと貪りがぶつかりあって、争いが生じ、苦悩に苛まれる。このようにして、不安と不満に明け暮れ、心休まる日とてないまま一生を送ることになる。  このような自分自身を真っ直ぐに観察したとき、人は虚しさを覚えるに違いない。

経文=「ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。」(注4)

 釈尊は、弟子たちに四諦の法門と八正道の法門を説いたという。これらの法門については、稿を改めて勉強したい。  四諦の法門を聞いて、禅定に入り、智慧を獲得した弟子たちは、今までの自分の姿をおぞましく思った。今までの生き方を捨てあるいは改めて、真実の生き方を目指したいと思った。そして、ますます釈尊の教えを聞き、学び、禅定に入って智慧を磨いた。

経文=「厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。」(注5)

 そのようにして努力を繰り返した結果、ようやく肉体・感覚・表象・意志・意識に対する貪りから離れることができた。これが解脱である。貪りから解き放たれ、脱出することができたのである。すると、そこに、安らかでありながら活き活きとした毎日が現れてきたのであった。

経文=「すでに解脱するにいたれば、わたしは解脱したとの智が生じて、〈わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい〉と知ることができるのである。」(注6)

 肉体・感覚・表象・意志・意識に対する貪りから離れることができたために、周囲に振り回されることもなくなった。人と争ったり疑ったりして苦しむこともなくなった。次元の高い人生を送ることができるようになった。ここまできた以上、ふたたび以前の次元の低い人生に戻ることなどありえない。  仏教ではこれを救いという。救いというものは、外から与えられるものではなくて、自らの智慧を磨き高めることによって、自ら得るものなのである。  さて、妙法蓮華経の安楽行品における「魔」が、阿含経典の魔羅と同一であることは疑いない。同じ安楽行品に次の経文がある。

経文=「賢聖の軍の五陰魔・煩悩魔・死魔と共に戦うに大功勲有って、三毒を滅し三界を出でて魔網を破するを見ては、爾の時に如来亦大いに歓喜して、この法華経の能く衆生をして一切智に至らしめ、一切世間に怨多くして信じ難く、先に未だ説かざる所なるを而も今之を説く。」(注7)

 ここで五陰とは、色(肉体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(意識)であり、煩悩とは自分の肉体の欲望に振り回される迷いであり、死とは肉体が無くなることを指している。すなわち肉体と心に対する執着心が発端となって次々と生まれてくる迷いを「魔」と言っているのである。  これらの肉体や心に対する執着心を解決すれば、真理の智慧に基づく人生を送ることができるようになることが、ここに示されている。阿含経典も法華経も同じことを言っているのである。  安楽行品では、魔網を破ったものにはじめて法華経を説くと言っているが、これは何を意味しているのか。  妙法蓮華経を読んだり暗記したりするだけでは、魔は破れない。仏の教えを受けてはじめて、自分自身の中にある魔と闘うことができる。苦心と苦労の末にようやく自分自身の魔を破ったとき、人生の真実の意味が分かってくる。この経文は、そういうことを言っているのだと、私は受け取っている。

注1、7『訓訳妙法蓮華経并開結』(平楽寺書店版・佼成出版社発行)252頁、253頁
注2〜6『阿含経典第二巻』(筑摩書房)231頁