【法華三部経を学ぶ その五】 我身命を愛せず      浪   宏 友


    「法華経を説き広める」とは

 妙法蓮華経勧持品に、次のような一節があります。

唯願わくは慮いしたもうべからず 仏の滅度の後 恐怖悪世の中に於て 我等當に広く説くべし 諸の無智の人 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者あらん 我等皆當に忍ぶべし

 ここに登場した菩薩たちが口を揃えて「我等當に広く説くべし」と言っています。「妙法蓮華経」を広く説こうというのです。
 「妙法蓮華経を説く」とはどういうことでしょうか。
 妙法蓮華経を信奉する人々の勢力を伸ばそうというのでしょうか。
 妙法蓮華経を広く宣伝して、他の思想を駆逐しようというのでしょうか。
 どちらもまったく違います。妙法蓮華経に説かれている内容を吟味すれば、この経典の真の内容はそのような性質をまったく持っていないことが分かります。
 庭野日敬師は、法華経に説かれている内容を次のように述べています。

われわれの住んでいる宇宙のほんとうの相(すがた)はどうであるか、人間とはどんなものか、だから、人間はどう生きねばならないか、人間と人間の関係はどうあらねばならないか−−−ということについて、あますところなく教えられているのです。(『新釈法華三部経1』14頁、佼成出版社)

 この通りであるとすれば、「妙法蓮華経を説く」ということは、人間として生きる道を説く、人間らしい生き方を説くということになるでしょう。
 しかも、釈尊の説法は実に柔軟であって、その人その場合に応じて、最も人間らしい生き方を示し続けてきたと言われています。

   魔王

 釈尊がまだ悟りを開く前、菩提樹の下で瞑想に耽っていたときのことです。魔王は、釈尊が悟りを開いてしまうと、そこが清らかになって自分たちの住むところが無くなってしまう。そうなっては困るのでなんとか今のうちにやっつけてしまおうと考えました。そうして、さまざまな手だてを加えて妨害しようとするのですが、釈尊の前にことごとく失敗に終わりました。この後釈尊は悟りを開かれたのでした。
 この話の中に出てくる魔王は、前号でご紹介しましたように、私たちの心と体に住んでいる煩悩です。その根本は、どうやら、自分の欲望に対する執着心であるようです。
 「お金」に対する執着や、「愛情」に対する執着ではないのです。お金を欲しいと思う「欲望」に執着する心であり、愛を「求める心」に執着する心なのです。
 お金が手に入れば欲望のほうは満足します。愛してもらえれは求める心は満たされます。けれども、執着心のほうは満足しません。欲望に執着し、求める心に執着していますから、もっと欲しいもっとたくさん欲しいと、欲望や求める心を大きくしていきます。どこまでいっても満足したり、感謝する心は起きません。このような心のはたらきが魔王です。このような魔王が私たちの中に住んでいるのです。
 魔王は、人間が人間らしく生きることを嫌います。人間が獣のように生きることを望みます。ときには獣以下になるようにと願います。このような魔王に支配されている人が「無智」の人です。

   迫害

 魔王は人間が人間らしく生きることを嫌いますから、釈尊の教えが広まるのを邪魔しようとします。法華経を広めようと努力する菩薩たちに対して、悪口雑言を吐いたり、暴力を奮って邪魔したりするのはそのためです。
 現代の世の中でも人間らしく生きようとする人々に対する迫害が後を絶ちません。
 正しく生きていこうと努力している人に対して嘲笑したり、非難したり、怒ったり、悪い評判を立てたりします。
 逆に、悪いことを礼賛したり、悪いことをするように誘惑したり強制したりします。そのようにして正しく生きることを妨害しようとします。
 何故そのようなことをするのでしょうか。無智だからです。経文にも、「諸の無智の人、悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん」とあります。
 無智とは、具体的には次のようなことを言うのではないでしょうか。

 1) 人間らしい生き方があることを知らない。
 2) 人間らしい生き方があることは知っているが、学ぶ心がない。
 3) 人間らしい生き方を学んだことがあるが、努力する心がない。
 4) 人間らしい生き方を嫌ったり、馬鹿にしたりする。

 このような無智の人々の中には、周囲に人間らしく立派に生きる人が現れるのを畏れることがあります。周囲に立派な生き方をしている人がいると憎んだり恨んだりすることがあります。そして先に述べたような迫害を加えることになります。
 無智の人は、人間らしい生き方を自ら捨ててしまうばかりでなく、他人にも捨てさせようとするのです。

   無上道を惜しむ

 人間らしく立派に生きようとしても恐怖を覚えるような迫害を受ければ、心の弱い人は人間らしく生きることをやめてしまうかもしれません。そのような中で、人間らしく生きる道を自ら歩むだけでなく、人々に向かって説こうというのは、よほどの勇気が必要です。
 「恐怖の悪世」の中で人間らしく生きる道を説けば、迫害を受けます。現代でも、人間らしく生きようとしている人々が、からかわれたり、仲間外れにされたりする例が後を絶ちません。
 このようなとき、迫害に立ち向かって闘えとは経文には書いてありません。「我等皆當に忍ぶべし」とあるだけです。耐え忍ぼうというのです。なぜなら、立ち向かい争えば、自ら人間らしい立派な生き方を捨ててしまうことになるからです。自分は人間らしく生き続けながら、迫害する人々に静かに向かい合おうというのです。
 そのときの姿勢が「我身命を愛せず」です。現代のこととして考えれば次のようなことになるのでしょうか。

 1) 自分の時間を善いことのために使うのはちっとも惜しくない。
 2) 自分の労力を善いことのために使うのはちっとも惜しくない。
 3) 世間の人々からどんな目でみられようと、善いことは続けよう。
 4) 世間の人々からどんなことを言われようと、善いことは続けよう。
 5) 自分の努力の成果が自分に返ってこなくても、善いことを続けよう。

 何故このような心になり、行動することができるのかと言えば「無上道を惜しむ」からだというのです。
 せっかく人間らしい生き方が説き明かされているのに、そのことを知らずに心の貧しい生き方をしている人々を心配しているのです。人間らしい生き方をしていないことを残念に思う心、それが「無上道を惜しむ」でありましょう。
 この人々から見れば、自分に迫害を加える人々も、心貧しい人々なのです。人間らしい生き方に導いてあげたい人々なのです。決して争う相手ではないのです。
 この菩薩たちには、人間らしい生き方に背を向けて、自ら不幸に陥っている気の毒な人々に対して、敵対する心は一切湧いてこないのです。「我等皆當に忍ぶべし」とは、そのような深いところから生まれてきた尊い心だったのです。