【法華三部経を学ぶ その六】 大地からの宝塔      浪   宏 友


    「宝塔湧現」

 妙法蓮華経の見宝塔品に入ると、とてつもなく大きな宝塔が現れる。高さ五百由旬、縦広二五〇由旬という数字がどれほどのものかは知らないけれども、どうやら雲の上まで突き抜けるほどの、あるいはそれ以上の大きさの巨大な塔であるらしい。それほどの大きな塔が地面から湧きだしてくるというのである。  このとてつもなく大きい塔が、実は一人一人の人間の本質の象徴であるという。人間の本質はそれほどまでに偉大で美しいものだと妙法蓮華経は言うのだ。
 地面とは現実に生きて生活している人間を指している。煩悩具足で、迷い、悩み、苦しんでいる人間。だがその本質は、我々自身は気づいていないのだが、地球ほども大きくそのうえ美しいものであったのだ。

    「悉有仏性」

 そういえば、道元禅師が「一切衆生悉有仏性」ということばを「悉有は仏性なり」と読んだのだそうだ。「悉く仏性有り」と読みそうなものだが、「存在(有)の悉くは仏性だ」と解したのであろう。
 これは、大地から宝塔が湧きだしてきたのと同じ受けとり方である。どんなに汚れていても、どんなに迷っていても、そのために間違った生き方をしていても、根本的には偉大で美しい本質を持っているのだから、やがては迷いから覚めて本当の人間として生きるようになる。宝塔を湧き出させた妙法蓮華経はそう信じているのである。
 道元禅師もまた、あらゆる存在はそのまま仏性なのだから、どんな人間でも、やがては必ず仏の智慧を悟って真の道を歩むようになると確信しているのに違いない。


    「悪人往生」

 親鸞聖人だったか「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人おや」と言ったそうだ。この場合の悪人は、仏の教えの通りに生きようとしても、どうしても煩悩に押し流されてしまう人々のことであろう。
 善人というのは、仏の教えを聞けば素直に受けて、その通りに生きられる素晴らしい人のことであろう。
 仏の教えを素直に受けてその通りに実践できる人が人格者へと成長していくのは当然である。
 しかし、幾度となく仏の教えを学び、頭では理解できるから、今度こそは体得しようとつとめても、結局自分の煩悩に打ち負けてしまう修行者(それはまさしく筆者自身なのだが)でも、いや、そのような愚か者だからこそ、往生すなわち仏のそばに生まれることができるというのだ。
 仏のそばに生まれるとは、仏と同じような人格を備えることなのだとすれば、煩悩に打ち負けてばかりいる人々が到達できる道理がない。ところが、いつかは必ず到達できるとこの言葉は断言している。これもまた、大地すなわち煩悩まみれの中から湧きだしてくる宝塔と脈絡を同じくする教えなのであろう。


    「地湧の菩薩」

 妙法蓮華経の従地湧出品では、大地から無数の菩薩が湧き出してくるという光景が描かれている。これまた、煩悩具足の中から生まれ出てきた偉大なる人々である。
 宝塔は人間の本質の象徴であり、悉有仏性は哲学的事実であり、悪人往生は信仰的な確信である。いずれも、煩悩まみれの人間の本質を信じている。
 大地から湧き出してきた菩薩たちもまた、煩悩まみれの人間の本質を信じている点では同じである。だが、ここでは、行動的なところが他にはない特徴であると言える。すなわち、この菩薩たちは、煩悩まみれの日常の中から本質を顕現した人たちであり,さらには「人間に備わっている偉大なる本質を信じる妙法蓮華経」を人々に伝えようとしている。多くの人々が自分自身の本質の偉大さに気づき自覚めるように行動しようとしている。いや、行動するために、煩悩の中から生まれ出たのだというのである。実際、この行動性が妙法蓮華経の大きな特徴である。
 庭野日敬師も言っている。自分だけが悟ればいいのではない、自分だけが幸せになればいいのではない。みんな一緒に悟ることが本当に悟ることであり、みんな一緒に幸せになることが本当に幸せになることだと。


    「常不軽菩薩」

 煩悩まみれの中から、人々を救った姿が描かれているのが、妙法蓮華経の常不軽菩薩品であろう。
 まだまだ六根が清まっていなかった時代の常不軽菩薩が、人々の偉大なる本質を拝み歩いたために、やがて妙法蓮華経の神髄を悟ることが出来たという物語である。
 常不軽菩薩が釈迦牟尼世尊の前生であったという結末が、人間の偉大なる本質を認め尊重するという行動が、偉大である同時に現実的なものであることを示している。
 ここにこそ法華経の真の精神があるのである。