【法華三部経を学ぶ その七】 信と解       浪   宏 友


    「信」

 妙法蓮華経如来寿量品に「汝等當に如来の誠諦の語を信解すべし」とあります。「誠諦」は釈尊の悟りの奥の奥の真実です。ですから「誠諦の語」は、釈尊の悟りの真実から語られる言葉です。「信」は信じる、「解」は理解するということです。
 「信じる」というのは、簡単に言えば「そのとおりだ」と思うことです。そのとおりだと思えば、それが行動に現れます。身に沁みるほどそのとおりだと思えば、自然に行動に現れるようになるはずです。何を信じるかは、どう行動するかということです。人間としての根本問題につながります。
 信解しなさいというのは、理解してから信じなさいということです。理解すれば、そのとおりだということが分かります。だから信じることができます。理解できないことは、そのとおりだとは思えません。ですから、信じることはできません。
 「分からないから信じる」というのは矛盾です。分からないということは、信じる根拠がないということです。それなのに信じるというのは、根拠がないのにそのとおりだと思うことです。理性的な行動ではありません。
 「分からないけれども信じる」というのは、何か傍証がある場合です。言っている人が信用できる。だからよくわからないけれども、そのとおりだと思おうというわけです。根拠を確認していないのですから、危なっかしい状態です。
 「如来の誠諦の語を信解すべし」とは、釈尊がご自分の深い悟りの奥の奥を語るから、よくよく理解して、その上で信じなさいということです。釈尊は、私の言うことを黙って信じなさいとは言わないのです。
 これに対して弟子たちが「我等當に佛の語を信受したてまつるべし」と答えました。「わたしたちは、釈尊のおっしゃることを無条件で、そのとおりだと受け止めます」というのです。釈尊を信じきっている弟子たちの真情としてはまさしくそのとおりでありましょう。

    「理解する力」

 正しい理解を根拠として正しい「信」が生じます。正しく理解することがまず大切です。  夜十一時に寝て、朝七時に起きる学生さんがいました。彼は何時間寝ていたのでしょうか。  下宿屋のおばさんは「十一時、十二時、一時、……、七時」と指折り数えて、学生さんに「九時間も寝ている」と難詰したそうです。学生さんは反論して「十一時に寝たのだから、十二時で一時間、一時で二時間、……、七時で八時間ですよ」と説明しましたが、どうしても納得してもらえなかったそうです。
 正しい根拠を理解できない人には、正しいことでもそのとおりだとは思えません。正しいことに対する信が生まれないのです。
 間違った根拠を受けいれてしまうと、間違ったことをそのとおりだと思い込んでしまい、間違った信が生まれてしまいます。正しい根拠を正しく理解する理性が発達していないと、そういうことが起きやすくなります。
 「如来の誠諦の語」は、よほど高まった、そしてよほど澄みきった理性でなければ理解できますまい。それゆえ釈尊は、弟子たちの理性が十分に高まり清まったのを見極めて、ようやく一代のお説法の最も深い内容を説きあかしたのだと思われます。


    「仮の信」

 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒にまみれているわれわれは、理性が濁ってしまっています。このため次元の高いことが理解できません。あるいは理解にひずみが生じてしまいます。いずれにしても正しいことを信じることができません。
 このようなとき人を信じて、その人の言うことを信じることがあります。あの人が言うんだから、きっとそうなんだと思うことです。これはいわば仮の信です。
 仮の信であるものを、信じなければいけないと自分に言い聞かせている人がいます。あるいは、根拠も確かめずに信じてしまう人もいます。いずれも危険に身を任せている姿です。
 仮の信から入った場合には、できるだけ早く理解しようと努力すべきです。理解してみたら本当にそうだったということであれば、改めて信じることになります。
 理解してみたら、そうではなかったということなら、今までの仮の信を捨てなければなりません。違うと分かったのにまだ信じているというのは変な話です。「そうでない」と分かったのに「そのとおりだ」と思いつづけるというのでは理論が分裂してしまっています。


    「解の重要性」

 「信」から入って「解」へ進むという道筋も否定することはできません。しかし危険な道筋です。やはり「解」から入って「信」へ進むというのが本来の道筋です。
 間違ったことを信じてしまったら、間違ったことを正しいと思い込んで歩んでしまうでしょう。それでは自分自身の人生を損なってしまいます。やはり「解」の裏づけが是非とも必要です。その「解」も理性に基づく正しい「解」でなければなんにもなりません。
 こうして考えてみると、次元の高い澄みきった理性を磨くことが最も大事なことなのかもしれません。そのような理性を磨くためにはどうしたらいいのでしょうか。詳しくは別に考察してみたいと思いますが、ともあれ貪欲・瞋恚・愚痴から脱却する努力が欠かせないだろうと思います。