【法華三部経を学ぶ その九】 心の中の妖怪      浪   宏 友


   「妖怪変化」

 魑魅魍魎(ちみもうりょう)といいます。魑魅は山林の気から生じるばけものであり、魍魎は山川や木石の精霊というわけで、さまざまな姿をとって現れる妖怪変化のことです。
 妙法蓮華経の譬喩品に妖怪変化が出てきます。さまざまな鳥、毒虫、獣、鬼などなど。これらは、いわば人間の心に住む魑魅魍魎を表現しているのです。
 人間の本質は真理に生かされていることであると妙法蓮華経は結論づけています。同時に人間の心の中には実にさまざまな妖怪が潜んでいて,本質から外れた生き方へと引きずっていくことをも示しています。
 妖怪たちは、現れては事態をかき回したりぶち壊したりします。そうしておいてまた心の中に逃げ込んでしまうのです。
 こうした妖怪たちと闘って打ち勝つことが、真の人間として生きるためにはどうしても必要なことなのです。しかし,捕まえて懲らしめたり退治してやろうとしてもおいそれと出来るものではありません。
 これらの妖怪は、すべての人間の心の中に住んでいます。普段はどこでどうしているか分からない妖怪が、何かの拍子に暴れ出します。そうなるともう手のつけようがありません。他人をも自分をも傷つけてしまいます。実に恐ろしいことと言わなければなりません。

   「妖怪の例」

 私たちに住む妖怪は実にさまざまです。例を二つ三つ上げてみましょう。

 第一の例。
 自分自身の本質を知らず、自分はこういう人間だと勝手に思い込む妖怪があります。思い込みによって高慢になったり卑屈になったりします。そのようにして、自分自身の成長発展を自ら疎外すると同時に、周囲にも多大な迷惑をかけています。

 第二の例。
 何かを欲しいと思うのは人間の自然です。物、お金、地位、名誉、権力そして愛情などなど。これらは、本来自分自身のなすべきことをなすために必要なものです。しかし、実際には身勝手な理由で際限なく欲しがる傾向があります。これらは、人間の本質からみれば不自然な欲望と言わざるを得ません。
 このような不自然な欲望は、自分自身の品格をおとしめるばかりでなく、周囲に迷惑をふりまいてしまいます。

 第三の例。
 自分の意見を通そうとするばかりで、他人の意見など頭から否定する人がいます。自分の意見を通すために、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うで、始めに言っていることと、中頃に言っていることと、終わりごろに言っていることとが大きな自己矛盾を起こしていても平気です。言動不一致など朝飯前です。人格の低さを示しているばかりでなく、人びとの間を攪乱したりして社会に害を及ぼします。

   「百八匹の妖怪」

 除夜の鐘は百八回叩くのだそうですが、それは百八つの煩悩を取り除くためだと言われています。これらの煩悩が心の中の妖怪なのだとすれば,妖怪は百八匹もいるのでしょうか。
 自分の心の手入れをせずにほったらかしにしておくと、こうした妖怪が成長してついには心を占領してしまいます。こうなると、もう妖怪を退治しようという気持ちさえ起きなくなってしまいます。その人自身が妖怪になってしまうからでしょう。
 心を妖怪に占領された人は、間違ったことを正しいと思い、正しいことを間違っていると思います。そのために、自分や他人の心、身体、名誉、財産などなどを平気で傷つけたり壊したりします。実に恐ろしいことですが、世間にはそのような人が充満しているのです。
 政治家、高級官僚、著名な評論家、大会社の経営者などなど、社会のリーダー的な立場にある人の中にも、妖怪に心を占領されていると思われる例が少なくないではありませんか。

   「自分との闘い」

 自分自身の中の妖怪を発見し、闘い、除いてしまうことはできないのでしょうか。
 その要素を除くことはできないようですが、はたらきを除いてしまうことは可能です。そのためには、心の手入れを怠らないことです。
 心の中の妖怪を退治しようとするときには、まず自分自身の生き方を人間の本質に合わせようと努力するところから始めます。
 調和と向上が人間の本質から出てきた方向性です。ですから周囲と調和することと、現在よりも向上することを同時に満たすような努力の方向が、正しい方向ということができます。そのように見定めて、実際にその方向の努力をすればいいのです。
 こうした人間の本質に基づく努力が、人生や生活を充実させるための土台となるのですが、特に心の中の妖怪退治には絶対的に必要な土台です。
 人間の本質に基づく努力を続ければ、心の中の妖怪を発見することも容易になりますし、妖怪のはたらきを除く力も大きくなります。
 こうした努力は日々の地道な実践において行なわれるものです。平凡に見える日々の実践が人間の本質に沿ったものとなるように努力し続けることこそ、自分の中の妖怪に打ち勝つ極意であると、私は考えています。