【法華三部経を学ぶ その十二】 ほんものの経営      浪   宏 友


   懺悔

 法華三部経の結経である仏説観普賢菩薩行法経の締めくくりに民間人のための懺悔の法が説かれている。懺悔の法は五項目あるが、その三番目は特にリーダー的な人びとのための内容であると見ることができる。

「第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉(じゃおう)せざる、これを第三の懺悔を修すと名く。」

 一般に懺悔とは過去に犯した罪悪を告白してゆるしを請うことであり、また神仏にお詫びすることであるとされている。しかし、ここでいう懺悔はそうではない。
 悪事に傾きかねない自分自身を戒めて、正しい道を歩むように努力することが懺悔であり、人びとが邪な方向に曲がらないように正しくリードする努力が懺悔であると言っている。法華三部経における懺悔は、真っ直ぐ前を向いているのである。

   政治

 正しい法にもとづいて国を治め、間違った考えによって人びとを邪な道へ曲げないようにすることが、懺悔の修行であると経文は言う。
 ここで法とは、法律のことではない。何時でも何処でも誰にでも当てはまる普遍的な理のことである。
 国を治めるとは、政治を指していると見ることができる。人民とは国民のことである。邪はよこしま、枉は曲げるであるから邪枉とは人の道から曲がることである。
 政治を行う者は、人々が人の道から曲がらないようにリードしなければならないと、この経文は言っている。
 そのためには、政治を行う人びと自身が人の道から外れていないことがまず求められる。その上で普遍的な理に基づいた法律を作り、普遍的な理に沿った行政を行うことである。そのために必要な環境整備もまた、政治の仕事であろう。

   経営

 政治とはよりよき現実を作ろうと努力することである。
 現実を作るためには決めなければならない。決めたらみんなが決めた通りに行動しなければならない。決めて、行動する。それが政治である。何をどう決めるか。どう行動するか。それが政治の姿である。みんなが決めたことに従い、決めた通りに行動するかどうかが、政治が成り立っているかどうかのバロメーターである。
 経営も政治の一つであると考えることができる。経営もまた、何かを決めて行動しなければならない。行動して必要な利益を生み出すという現実を作らなければならない。
 利益を生み出すためには、経営者が決めたことを経営者と従業員が実行して経営が成り立つ。経営者が決めたことを経営者や従業員が実行しないようなら、企業は成り立たない。

   間違った経営

 経営者が決めたことを、経営者と従業員が実行したとしても、その中身が間違っていたらどうなるであろうか。経営者が従業員に曲がった行為をさせていたらどうなるであろうか。
 その実例は、新聞でテレビで毎日のように報道されている。人びとに迷惑をかけ社会を乱し自らを滅ぼしている。
 見つからなければいい、分からなければいいと思うかもしれない。なるほど見つからなければ社会的制裁からは免れるかもしれない。しかし自分自身が損なわれていくことを止めることはできない。いや、ますます悪事を重ねてますます自分を損ねてしまうであろう。自分ばかりでなく、自分に従う人びとがみんな損なわれてしまうであろう。曲がった生き方を身につけてしまった人びとは、正しい生き方から遠ざかってしまうであろう。

   ほんもの

 曲がった生き方からは、ほんものの人生は生まれない。ほんものの経営も成り立たない。普遍的な理に沿って努力をすることによって、ほんものの人生も、ほんものの経営も約束される。ほんものの人生こそ生きがいのある人生であり、ほんものの経営からこそ働きがいが生まれる。
 自ら普遍的な理に沿った生き方を志向しつつ、人びとをもそこに導く努力をすることは、決して容易ではない。さればこそ、これを懺悔と名付けているのであろう。
 普遍的な理に沿うほかに、真の生き方がないことを、われわれは肝に銘じなければならないのである。