【法華三部経を学ぶ その十四】 忍辱          浪   宏 友


   「忍辱」の意味

 妙法蓮華経の法師品から従地涌出品までを「忍辱」という修行が貫いています。「辱めを忍ぶ」となっているために、内容が正しく伝わらないのが残念です。
 庭野日敬師は「忍辱」について次のように語っています。(庭野日敬著『法華経の新しい解釈』佼成出版社、平成8年5月30日)

「忍辱」というのは、つまり「寛容」ということです。それも、人に対してだけでなく、だんだん修行を積んでゆくと天地のあらゆるものに対して腹を立てたり、恨んだりしないようになります。
   (中略)
 さらに進んでは、自分に損害や侮辱を与えたり、自分を裏切るような相手に対しても、たんに怒りや恨みを覚えないだけでなく、積極的にそれを救ってやりたいという気持を起こすようになります。

 忍辱は我慢とは違います。我慢は、心の中に怒りや恨みがあっても、じっとこらえて外に出さないことです。
これに対して忍辱は、怒りや恨みを起こさないのです。起こさないばかりか、広い愛情で相手を包み込んでしまうのです。
 師はさらに別の角度から説明します。

 また逆に、「最高にすばらしい人だ」というようにおだてられても、有頂天にならず、じっと自分をかえりみるのも、ものごとがうまくいったからとて、優越感を起こすことなく、下がる心を持するのも、やはりみな「忍」なのです。

 自分に都合のいいことが起きたり、人から認められたりすると、たちまち得意になったり、威張り出したりするのは人間が小さいからです。そんなときにも謙虚に感謝し、謙虚に自分の成すべきことを成す心が大切だというのです。

   心揺らぐ日々

 身の回りの出来事のひとつひとつにかき乱される日々を送っていると、次第に身も心も疲労してきます。しかも、ただ振り回されているばかりの毎日からは、消耗したエネルギーに見合った成果を得ることができません。いわゆる「骨折り損の草臥儲け」になってしまいます。これでは、真の人間として生きる道を開くことも、歩むこともできません。
 われわれは宇宙の大生命に生かされている通りに生きていけばいいのです。自分の性格に応じ、才能に応じ、職業に応じて、自分をも、他人をも、世の中全体をもしあわせにするものごとを、たえず創造していけばいいのです。
 そのためには、身の回りの出来事に惑わされずに、正しい道を見つめ、自分のなすべきことを見つめ、忍耐強く努力を重ねていくほかありません。ここに、忍辱の修行が生きてくるのです。

   企業経営

 企業も人間の営みのひとつです。経営者は、企業の性格に応じ、資力に応じ、業種・業態に応じ、能力に応じて、顧客、従業員、協力会社その他のステークホルダーと、経営者自身をしあわせにするように、経営していくことになります。
 このとき、経営環境の変化に振り回され、業績に惑わされて、迷いが生じたり、焦りが出たり、暗い気持ちになったり、少しうまくいくと有頂天になったりしていては、着実な発展は望めません。
 どんな場合でも、企業と環境の実態を見極め、その中で正しいありかたを見出し、正しい経営を追究しなければならないのです。
 経営者には、何にも増して、忍辱が必要です。忍辱を土台にして、どんなことがあってもたじろぐことなく、よりよい経営を進めていくように心を定めることが求められているのです。