【法華三部経を学ぶ その十五】 決定責任         浪   宏 友


   「見た通りにしない」

 私が経営者の皆さんにお薦めしたり、お願いしていることがいろいろあります。そのなかのひとつをご紹介します。

 私は申し上げます。
 「見た通りにしないでください」
 「聞いた通りにしないでください」
 「教わった通りにしないでください」

 私はコンサルタントですからいろいろお教えすることもありますが、その私から教わったことでもその通りにしないでくださいとお願いするのです。なんと無責任なとお思いでしょうか。

 ◇成功した同業者を見学し感心して、自社でも見てきた通りにしたら、ますますお客が来なくなってしまった例。
 ◇知識の広い人から、こうすればいいんだよと教わってその通りにしたら、見かけはよくなったように見えたのだけれども、結局は損失が増えていた例。
 ◇コンサルタントから教わった通りにしたら良くなってきたけれども、コンサルタントが居なくなったら元の木阿弥になってしまった例。

 見た通り、聞いた通り、教わった通りにしたことが、結局役に立たなかったり、かえってマイナスになったりしています。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。

 ◇他社で見たことを見かけだけ真似ても、いわゆる付け焼き刃になってしまいます。
 ◇聞いた話を鵜呑みにして、よく確かめもせずに採用したために、ちぐはぐなことをしてしまうことがあります。
 ◇コンサルタントが居たときの状況と、居なくなった後の状況が変化していれば、教わったことが当てはまっていないかもしれません。

 こんなことを繰り返していては、経営は傾くばかりです。

   「役立てかた」

    見たこと、聞いたこと、教わったことが何の役にも立たないのではありません。役に立てかたを間違えているのです。

 成功事例、良い考え、よい理論には、なんらかの法則が隠されています。これらの法則を正しく理解した上で、状況に応じて正しく活用してこそ成功への道が開けてくるのです。

 自社の状況、経営環境、従業員の資質や能力、自分自身の得手不得手などによって、法則の活用の仕方が変わってきます。

 法則を見出し、自社に合わせて活用する努力をせず、自社の状況把握も曖昧なまま、形だけを追いかけてみても、よい結果は約束されません。

   「聞解・思惟・修習」

    ここで思い出すのが、妙法蓮華経法師品に説かれている「聞解・思惟・修習」の教えです。

 聞解(もんげ)とは、聞いて理解することです。見たこと、聞いたこと、教わったことを自分の考えで色付けしたり曲げたりせずにそのまま理解することです。

 思惟(しゆい)とは、考えめぐらすことです。考えめぐらして法則を見出すことです。原因・条件・結果・影響の理論に当てはめて考えることができれば、正しい法則に近づきやすくなります。

 修習(しゅしゅう)とは、思惟を通して見出した法則を自社の条件に当てはめて行なってみることです。実際に行なってみて始めて、法則を検証することができます。

 このような手順を通して理解に至ったものであれば、間違いなく自分のものになっています。自分のものとなった法則によって、自社のあり方を考えたとき、ようやく正しい方策が見出されてくるのです。

   「経営者の仕事」

    自分で決めて、自分で行なって、結果を自分で引き受ける。これを決定責任、執行責任、結果責任とも言います。企業においては、最終的にこれらの全ての責任を取るのは経営者です。

 経営者の仕事の中でも、最も重要なものは、決めることだと言われています。目的を決め、業種・業態を決め、具体的な目標を決め、顧客を決め、資源の使い方を決め、従業員の配置や役割を決め、商品・サービスを決め……。

 決めなければ何も動きません。決めたときから動きが始まります。決めたからには決めた通りに実行します。決めかたが適切で正しく実行していれば、必ず業績は上がります。

   「法則を見出す」

    見た通りにしよう、聞いた通りにしよう、教わった通りにしようというのも、すべて経営上の決定です。それがたまたま適切であれば、業績向上のきっかけになりますが、たいていの場合は適正ではないのです。見た、聞いた、教わったその条件と自社の条件が一致していることはあり得ないからです。

 決定を下すのは経営者です。見せてくれた人、話してくれた人、教えてくれた人は何も決めませんし、責任も担いません。目の前にある結果を引き受けるのは経営者自身です。 良い事例、よい話、よい理論には必ず良い法則が隠れています。取るべきものはその法則であって、やり方ではありません。その法則を見出すためには、聞解し、思惟し、修習するのが一番の早道です。経営者にとって、この理論は大きな力になるものと私は信じています。