【法華三部経を学ぶ その十七】 三草二木        浪   宏 友


   「修行の段階としての三草二木」

 妙法蓮華経薬草喩品の偈の中に、小の薬草、中の薬草、上の薬草、小樹、大樹について語る部分がある。その一節を私は修行の階梯として次のように解釈した。
 この一節における大樹とは、自由自在に教えを活用して多くの人びとを救うはたらきをする大菩薩である。人間として生きる理想の姿を語っていると思われる。
 小樹とは、自分は必ず仏の境地に至ることができると確信して、仏の教えを熱心に修行している菩薩である。真の人間としての道を力強く歩いている人であろう。
 上の薬草とは、仏から教えをいただきながら、仏の境地を求めて精進する修行者である。人間として生きる目的を掴み、道を歩んでいる人びとである。
 上の薬草の境地は小樹と似ているところがあるが、小樹が仏の教えを身につけて自立的に修行しているのに対して、上の薬草は、ひとつひとつ教えてもらいながら修行しているところに違いがあるのではないかと思われる。
 中の薬草とは、仏の教えを学び、現象に振り回されない境地に入って、熱心に修行している修行者である。
 小の薬草とは、仏の教えを学び、本人の力や境遇に応じて仏の教えを実践する人びとである。このような人は修行者としてはまだ初心であるが、それでも人びとの模範となったり、世間のリーダーとして活躍することができる。
 しかしながら、小の薬草になることすら現実には難しい。まして、中の薬草、上の薬草、小樹、大樹と成長していくのは、生やさしいことではない。

   「仏の教え」

 仏の教えを学ぶとは、仏教徒になるということではない。仏とは覚った人という意味である。覚るとは深くわかるという意味である。「この世界はどのようになっているか、人間とはどんなものか、だから人間はこの世にどう生きるべきであるか、人間どうしの社会はどうあらねばならないか」が仏にははっきりと分かり、その通りに実践しているのである。
 このように仏の教えとは、人間らしく生きる生きかたの教えなのである。したがって仏の教えを学ぶとは、人間らしい生きかたを学ぶことなのである。
 ついでながら救われるとは、人間らしい生きかたができるようになるという意味である。人間らしい生きかたができるようになれば、財的にも満ち足りるようになるし、健やかに生きることができるようになる。これらは、救われに付随して起きる自然な現象である。

   「小の薬草」

 ここに取り上げた一節における三草二木は、人間らしい生きかたを身につけていく段階を表現したものであり、その第一段階が小の薬草である。仏の教えを学び、本人の力や境遇に応じて仏の教えを実践する段階である。ここではまだ現象に振り回されなくなったというところまでは至っていないけれども、仏の教え(人間らしい生きかたの教え)の通りに生きていこうとする努力はほんものである。
 自分の心、行動、生きかたを仏の教えに照らし合わせて反省し、仏の教え通りに生きていこうと努力を繰り返す人は、現代社会ではまさしく人びとの手本となりうる人であろう。そのような人がリーダーとしての資質を備えるようになれば、間違いなく、社会のリーダーとしてのはたらきをするであろう。
 現代に生きる人びとは、まずもって小の薬草になるべきであると、私は考えるのである。

   「個性としての三草二木」

 薬草喩品の冒頭には、山野を埋めつくす草木に大雲から雨が降り注ぎ、それによってそれぞれの草木がそれぞれの成長を遂げ、それぞれの花を咲かせ、それぞれの実を結ぶことが延べられている。
 多くの草木はそれぞれの大きさ、それぞれの形や性質をもっていて千差万別である。しかし、草木が生いしげる大地は一つであり、降りそそぐ雨もまた一味である。いかに多様であろうとも根本は平等である。存在価値に上下の差別があるはずがない。
 人間はもともと平等な一人ひとりなのである。それがさまざまな条件の違いから千差万別の姿や性質を持つようになる。千差万別の姿や性質の人びとが協力し合って社会が大調和し、また発展していくのである。
 社会的な地位や立場が人間の価値を決めるのではない。社会の大調和と発展に参加していることが価値なのだ。
 こうして、本来は平等な人びとが、多様性をもって存在しているという事実が、尊い意義を秘めている。ここに、個性の真の意味と意義があることに気づかなければならない。

   「理想の世界」

 それぞれの人が、少なくとも小の薬草の境地を得て、自分のもちまえの個性を世間で発揮したら、そして個性と個性が協力し合うようになったら、活動的でありつつ調和を保ち、調和しながら発展する素晴らしい人間世界が現実のものとなるであろう。まして人びとが、中の薬草、上の薬草、小樹、大樹と成長していったとしたら、間違いなく理想世界が実現するに違いない。
 一人ひとりが真の人間として生きることは、自分にとっても、世間にとっても大きな意義を蔵しているのである。