【法華三部経を学ぶ その十九】 会社の中の菩薩      浪   宏 友


   「声聞乗・縁覚乗・仏乗」

 法華経には「一乗」「二乗」「三乗」という言葉が出てきます。乗というのは乗りものです。悟りの彼岸に達するための舟のように、釈尊の教えはよく乗りものにたとえられたそうです。
 三乗とは、声聞乗・縁覚乗・仏乗の三つです。二乗というときは、このうちの声聞乗と縁覚乗を指し、一乗というときは仏乗を指します。
 声聞乗とは、声聞の悟りに達するまでの教えであり修行です。縁覚乗とは、縁覚の悟りに達するまでの教えであり修行です。仏乗とは、仏の悟りに達するまでの教えであり修行です。仏乗の修行をしている人を菩薩といいます。このため、人によっては仏乗を菩薩乗という人もいますが、法華経には菩薩乗という言葉は見当たらないようです。その代わり、菩薩の道という言葉があります。
 乗とは乗り物ですから、目的地に達してしまえば必要がなくなります。停留所でバスに乗り、目的地についたら降りるようなものです。
 声聞の境地を求めていた人が、声聞の境地に達することができれば、そこで修行は終わりとなります。縁覚もまた同じです。では、本当に修行はそれで終わったのでしょうか。そうではないと釈尊は言いました。
 釈尊は、初めて説法したときから、ずっと仏乗を説いてきました。しかし、修行に入ったばかりの人や、まだ心が十分に高まっていない修行者に、いきなりこれは仏乗だよ言っても、信じてもらえなかったり、尻込みされたりする恐れがあります。
 このため、釈尊は仏乗の途中に仮の目的地である声聞の境地、縁覚の境地を立て、仏乗を声聞乗・縁覚乗という名で包んで、修行者たちを導いたのです。
 修行者たちは、声聞の境地、縁覚の境地を見て、これなら自分たちにも達成可能だと考え、声聞乗、縁覚乗の修行に励みました。その結果、声聞の境地、縁覚の境地に高まることができました。
 そこまで心が高まってきたので、釈尊は、この人たちに改めて仏乗を示したのです。
 修行者たちは、自分の歩んできた道が実は仏乗であったこと、仏乗はこれから先にずっと続いていることを知って、驚くとともに大喜びをしました。そして、今度は意欲をもって仏乗を歩み始めるのです。
 これが法華経前半の主要な内容であると、私は理解しています。

  「釈尊の問題解決理論」

 釈尊は声聞の修行者に四諦の教えを説きました。四諦というのは、現代の経営やビジネスの理論では、問題解決理論と言われているものです。
 釈尊が説いた四諦は、人間的な苦しみ悩みを自覚し見きわめるところから出発しています。自分が当面している苦しみ悩みを見きわめたら、そのような苦しみ悩みが生じた原因を見いだします。自分の苦しみ悩みの原因は、やはり自分自身が持っていることを見きわめたら、その原因除去を目標として設定します。そして、原因除去のための道筋を見いだして、努力に入ります。
 大づかみに言えば、これが四諦の教えです。経営・ビジネスにおける問題解決理論も、大筋は同じです。
 経営・ビジネスでは、いつ、どんな問題が生じるか分かったものではありません。このとき、目前のできごとに右往左往していても、何も始まりません。
 応急的な対応はしなければなりませんが、これは問題解決ではありません。問題が広がるのをとりあえず押さえるための措置です。
 問題を解決するためには、問題をきちんと設定し、問題発生の原因やメカニズムなどを解明し、問題解決の目標を設定して目標達成のための方策を立て、実行します。
 このように、問題と正しく取り組み、正しく解決することが、経営・ビジネスでは求められています。そして、問題との正しい取り組みをした人が、経営者として、ビジネスパーソンとして、一歩一歩成長していくことができるのです。
 声聞が釈尊の導きによって四諦の教えを修行しながら、一歩一歩境地を高めていったプロセスに通ずるものではないでしょうか。

  「人間的成長」

 修行者たちが四諦の教えによって問題を解決しながら人格を高めていったと同様に、現代の経営者・ビジネスパーソンも、正しい問題解決の取り組みを繰り返すことによって、業務上の実力が向上すると同時に、人間的にも成長するはずです。
 もちろん、どこまでも正しい問題解決でなければならず、いい加減な問題解決や、ごまかしの問題解決では、とても人格の向上は望めません。また、自分自身で取り組むのでなければ意味がありません。実力は、実際に取り組んだ人の身につくものだからです。
 このプロセスをたどるとき、すぐれた指導者、すぐれた先輩に教えを仰ぐことができればなお確実であることは、釈尊を師と仰いだ人々が、いち早く悟りに到達した事実を見れば一目瞭然です。
 このようにして、業務上にいかなる問題が生じても解決できるだけの力がついたとしたら、その人は会社の宝となることでしょう。しかし、それで終点だと思ってはいけないと、法華経は言っているように思われます。それはまだ途中に過ぎない、本当の歩みはこれからだよと、釈尊は語っているのです。それは一体何故でしょうか。

  「個人から社会へ」

 声聞の修行を続けることによって次第に人格が向上します。声聞の最高の境地は阿羅漢と呼ばれますが、阿羅漢とは世間の人々から供養を受ける価値のある人というような意味があるそうです。尊敬に値するということでしょう。
 ところが、それほどまでの人格者でも釈尊は満足なさらない。それは、修行者たちがまだまだ個人的な悟りで終わっているからだというのです。
 自分はどんな状況におかれても決して心乱れることはないし、道から外れることはない。その意味ではすごい人だと思います。
 しかし、自分の周囲の人々が心乱れていたり、道から外れようとしているのを止めることができないのでは、社会全体はよくなりません。
 会社の中で自分だけが正しくしていても、他の社員がルール違反をしたり、怠けたりしていては、会社全体は乱れっぱなしになってしまいます。
 困難な状況の中に飛び込んで、他の社員をも正しい道に導き、人格の向上に向かわせてあげることが必要なのです。そうしてはじめて、会社全体が繁栄に向かうことができるからです。
 そこで釈尊は、境地の高まった声聞たちに仏乗の修行を勧めました。菩薩の道を歩めというわけです。社会のために尽くすことの大切さを説いたのです。

  「菩薩という人材」

 菩薩という呼び名には、仏の悟りを求めて修行する立派な人という意味があるそうです。このような人は社会性に目覚めていますから、個人的な悟りで満足して終わることはありません。
 菩薩は共生(共に生きる)の精神に満ちていて、みんな一緒に繁栄しよう、みんな一緒に幸せになろうと努力します。
 会社の中で自分だけがちゃんとやっていてもなんにもならない。会社のみんなが立派なひとりひとりになってもらいたいと願って、周囲の人々にはたらきかけ、可能な支援をしたりしながら、努力を続けているような人が菩薩です。
 自分さえよければいいというような精神の持ち主は菩薩にはなれません。地位や立場を得たから自分は偉いのだと、威張るような人も菩薩にはほど遠いものがあります。
 自分もみんなも、揃って一番いい道を歩みたい。それが菩薩の精神を持った人の願いです。
 企業文化の向上を通して、業績を向上させようという試みが、そちこちの会社で行われていますが、そのような試みに是非とも必要な人材が菩薩でありましょう。
 企業発展のために中心となるべき人材は、まさしく菩薩の資質を持った人であると私は信じて疑いません。
 菩薩に特有の資質は、慈悲と智慧と行動力であると思われますが、これについては別稿を起こして、詳しく研究してみたいと思います。