【法華三部経を学ぶ その二十】 今も未来も        浪   宏 友


   「現世安穏・後生善処」

 妙法蓮華経薬草諭品にこんな一節がある。

 「是の諸の衆生、是の法を聞き已って、現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦法を聞くことを得。既に法を聞き已って諸の障礙を離れ、諸法の中に於て力の能うる所に任せて、漸く道に入ることを得。」

 庭野日敬師はここの段を次のように訳している。

 「これらの衆生は、教えを聞いた結果、現世においては心の安らかさを得て幸福な身となり、未来の世においてはよい境界に生まれるのです。すなわち、仏道を修行したおかげで楽しい生活をおくることができ、また、その世でもふたたび仏の教えを聞くことができるのです。そして、そうすることによってしだいに心の迷いや障りから離れてゆき、さまざまな方便の教えのなかから自分の能力に応じて身につきやすいものを受け入れてゆき、ついには最高の悟りに到達するのであります」(庭野日敬著『新釈法華三部経4』佼成出版社)

 庭野日敬師の著書を読むときに心しなければならないことがある。たとえば、「仏」とか「仏道」という言葉の意味である。
 うっかりするとこれらの言葉は、特定の宗教に限定された専門用語として受け取られたり、固有名詞として読まれたりする。しかしながら、庭野日敬師はこれらの言葉を一般名詞として使用している。
 「仏」とは「真の人間としての智慧が完成し、真に人間らしい生き方をしている人」というような意味であり、「仏道」とは「真の人間としての行い」あるいは「真の人間の生き方を身につけるための修行の道」というような意味である。また「方便」とは「その人、そのとき、その場合に応じた適切な手段・方法」というような意味である。
 このほかの言葉もまた「いつでも、どこでも、だれにも当てはまる普遍の真理」に根ざした意味を内容とした一般名詞としての使い方をしていることが多い。
 このことを理解しながら庭野日敬師の著書を読めば、なお深い意味を感得することができるであろう。

  「幸福な日々」

 釈迦牟尼世尊の教えをすっかり聞いた衆生は「現世においては心の安らかさを得て幸福な身となり、未来の世においてはよい境界に生まれる」と、この経文は言っている。
 わかりやすく言えば、今日も幸福であり、明日からも幸福なのである。
 もちろん、教えを聞いただけでは幸福は得られない。「是の法を聞き已って」という言葉には「聞いた教えをすっかり身につけて」と読むべきであろう。
 教えを身につけると、安らかな心で毎日を送ることができるようになる。人間とは不思議なもので、本当に安らかな心になると、ものの見かた、考えかたが正しくなり、行いが正しくなる傾向がある。すると、自分の生き方が生命の流れに乗ると同時に、家族、友人、一緒に仕事をしている人も、ともども生命の流れに乗ることができるようになる。
 生命が当たり前の流れを取り戻せば、心安らかで活動的な幸福な毎日が訪れるのは当然である。それゆえ、今日が安穏であり、明日はよい境界となる。すなわち幸福な日々が訪れる。この経文からは、このような意味がくみ取れるのである。

  「経営理念」

 なるほどそうだなと思う。今は幸福だけれど未来は不幸だなんていうのは論外だ。
 未来の幸福を夢見て現在の苦しみに耐え抜くというのは、物語としては感動的だけれどもそれでいいのか。
 本当のところは、今も幸福で未来も幸福なほうがいいに決まっている。釈尊はそう言いたいのであり、そうなる道があると言っているのではないか。
 ここまで考えたとき、私は経営理念の理論を思い出した。経営理念には「目的」をうたい込むのが普通である。この目的を吟味してみると、経文のこの一節と符号するところがある。
 顧客満足を目的とした場合にはいっそうそのことが鮮明となる。満足していただく顧客とは、今日の顧客であり、明日の顧客であり、一年後、十年後の顧客である。今日も満足していただき、明日も満足していただき、一年後も十年後も満足していただく。それが、顧客満足の目指すところである。
 なるほどそうなのだ、経営理念における目的とは、いつか達成するものではなくて、今日からずっと達成し続けるものなのである。それでこそ企業が社会に存在する価値がある。
 経文の後半には、幸福が幸福を生み続け、、一歩一歩高いレベルの幸福に向かって歩む姿が語られている。
 経営の立場でこれを読めば、業績が業績を生み続け、会社の体質が日々レベルアップし、これを通してゴーイングコンサーンが確保できることを示していると解釈できる。
 ゴーイングコンサーンとは、企業が経営を継続しつつ、未来に向かって進歩向上することであり、企業責任のひとつであると言われている。
 人生も企業経営も、まさしくゴーイングコンサーンでなければならず、それこそが真の幸福なのであると経文は語っているのではあるまいか。