【法華三部経を学ぶ その二十一】 十如是と私        浪   宏 友


   「十如是」

 私は妙法蓮華経を学ぶうちに、方便品の次の経文に心をひかれた。経文は意味が分かりにくいので、庭野日敬師の現代語訳を並記させていただく。

[経文]
 止みなん舎利弗、復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。

[現代語訳]
 やめよう舎利弗、これを説明してみても、わかるはずがないとおもいます。なぜならば、仏が究められた法というものは、この世における最高の法であり、ほかに類のない、そして普通の人間にはとうてい理解できないものであるからです。

[経文]
 唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。

[現代語訳]
 これは仏と仏の間だけで理解できるものであります。すなわち、もろもろの仏は、この世のすべてのものごとのありのままの相を見極めつくされたのですが、わたしもまたそれを見極めたのです。

[経文]
 所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。

[現代語訳]
 つまり、すべてのものごとのそれぞれについて、それはこのような姿・形をしている、このような性質をもっている、このような主体をもっている、このような能力が具わっている、このようなはたらきをする、このような原因があり、このような条件があって、このような結果を生ずる。それによってこのような影響を後に残す、ということであり、この相から報までの九つのことはすべて一貫しており平等なものである、ということを完全に見極めたのです。

 経文に「如是」という言葉が十回繰り返されているので「十如是の法門」と呼ばれ、妙法蓮華経の教えが集約されているという意味で「略法華」とも呼ばれている重大な一節である。

   「十如是の語るもの」

 十如是の経文と現代語訳を対照してみると、次のようになる。

 諸法‥この世のすべてのものごと
 実相‥ありのままの相

 仏とは、最高の智慧を成就した人であると聞いている。最高の智慧のはたらきのひとつは、この世のすべてのものごとのありのままの相を見極める力なのであろう。
 智慧を具えていない人びとには、この世のものごとのありのままの相が見えず、絶えず見誤りのなかで生活し、人生を送っているということなのであろう。
 ものごとのありのままをみるのは、実に難しいことなのである。
 次の経文に進もう。

 如是相‥このような姿・形をしている
 如是性‥このような性質をもっている
 如是体‥このような主体をもっている
 如是力‥このような能力が具わっている
 如是作‥このようなはたらきをする
 如是因‥このような原因があり
 如是縁‥このような条件があって
 如是果‥このような結果を生ずる
 如是報‥それによってこのような影響を後に残す
 如是本末究竟等‥この相から報までの九つのことはすべて一貫しており平等なものである

 経文は、ものごとには姿・形と性質があると言っている。また、姿・形と性質は別々にあるのではない。そこで姿・形と性質を持っているものを主体と言っているのであろう。ここは文字通りに理解することができる。
 姿・形と性質を持っているものには何らかの能力がある。能力が発揮されればはたらきが生まれる。これまたそのとおりである。
 さて、ものごととものごとが出会うとどうなるか。経文は、一方が原因となり他方が条件となって何らかの結果が生まれると言っている。そして、その結果は後々になんらかの影響を残すという。これも、経験と照らし合わせてうなずくことができる。
 こうした姿・形、性質、主体、能力、はたらきには一貫性があり、原因・条件・結果・影響の関係にも一貫性があると言う。
 現実を見ると、確かにそうだと思えるところと、果してそうかなと疑問符を禁じ得ないところがあるが、それはありのままを見ることができない私の限界なのかもしれない。この世のすべてのものごとのありのままの相を見極めつくしている仏の目からみれば、まごうことなく一貫しているのであろう。
 そうした一貫性はどこから生まれるのかと言えば、すべてが平等だからだというのである。ここのところはさらに分かりにくい。平等に関する考察は、別の機会に譲りたいと思う。

   「十如是と科学」

 私が東京理科大学の物理科を超低空飛行で卒業してからすでに四十年以上の時を経ている。こんな私だから、あまりあてにはならないが、記憶の底に漂っている科学的知見の残滓を動員して考えてみたことがある。
 自然科学においては、すべての先入見を捨てて、ものごとをあるがままに観察する態度が重視されている。その点、十如是においても、同じ態度が要請されているように思われる。
 自然科学においては再現性が重視されていると思うが、十如是は同じ原因・条件なら同じ結果・影響が生じると言っている。これは再現性を語っていると見ることができるのではないか。
 自然科学では、観察や実験を繰り返して一般的な仮説や理論に到達する面がありこれを帰納的方法と言ったと思うが、釈迦牟尼世尊が十如是のもととなる縁起の法を悟った経緯は、まさしく帰納的方法であったのであろうと、経文などから推察することができる。
 しかし弟子たちには、十如是を含むさまざまな法門を与え、それによってものごとを観察し対処することを教えている。これは明らかに演繹的な方法をすすめていると考えられる。
 いずれにしても、釈迦牟尼世尊の方法は科学的方法の範疇で理解することが可能である。
 マイクロソフトの“エンカルタ百科事典2000”には「哲学はさまざまな出来事について『なぜ』と『どのように』を問う学問であるが、科学は、『どのように』しか探究しない。」とある。
 十如是の法門のうち、如是相から如是報までは「どのように」を語り、最後の如是本末究竟等は「なぜ」を語っていると思われる。そうであれば、十如是は哲学的な思考を土台とし科学的な姿勢によるアプローチを内容として、ものごとを語っていると見ることができるであろう。

   「十如是と人間」

 前述のような考察を経て、私は十如是を価値ある理論と確信し、その活用の道を開こうと志したのである。
 十如是に照らしながら「人間」について考えるとどうなるであろうか。
 如是相・如是性・如是体については、このような姿・形をし、このような性質を具えた○○さんととらえることができる。
 如是力はそのような○○さんが持っている潜在的な能力であり、如是作は潜在的な能力が発揮されることによって現れるはたらきである。
 このような人びとが互いに原因となり条件となって、結果が生まれ、その影響によってさらに次の現象が生じる。
 こうしたとらえ方によって、人間関係や社会事象を観察すると、ものごとの実態や本質を理解することができるから、事態にどう対処することができるのか、どう対処すればいいのかなど、自分の次の行動を決めることができる。
 すべてをありのままに見ることができない私だから、迷いを払拭することは不可能にしても、道筋だけでもつかむことができるのは大きな強みである。これによって、自己を開発し、人生を開発することも可能となる。
 そのようにして活用を重ねてきた私は、十如是がわれわれに大きな力を与えてくれることを実感し確信するに至っている。
 十如是を理解し活用できるという大きな財産を手にした私は、その機会を与えてくださったのが釈迦牟尼世尊であり庭野日敬師であることに、不思議の思いと深い感謝を禁じ得ない。