【法華三部経を学ぶ その二十二】 主・師・親の三徳        浪   宏 友


   「有名な一節」

 妙法蓮華経の譬喩品に、有名な一節があります。釈迦牟尼世尊は、

如来は已に 三界の火宅を離れて 寂然として閑居し 林野に安處せり

とのお言葉に続けて、

今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ我が子なり 而も今此の處は 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す

と力強くおっしゃいました。
 ここのところを、庭野日敬師は、次のように訳しています。(庭野日敬著『法華経の新しい解釈』佼成出版社)

 わたしは、ずっとむかしからこの迷いの世界を離れ、世の中のわずらいごとに影響されること のない境地に落ちついているのですが、しかし、この三界のことは片時も忘れることはできないの です。
 なぜならば、この三界はみんなわたしのものだからです。その中にいる衆生はすべてわたしの子だからです。しかも、この三界にはもろもろの苦しみ悩みが満ち満ちているのです。どうして、わたしがこの苦の世界に飛び込んでいって、わが子を救わずにいられましょう。しかも、みんなを救うことのできるのは、たった一人、わたししかいないのですよ。

 三界というのは、私たちの住んでいるこの世界のことです。釈迦牟尼世尊は、この世界は全部わたしのものだ、そこに住んでいる人間はすべて私の子だ、そしてみんなを救うことができるのはわたし一人なのだと、力強くおっしゃっているのです。
 この経文には、非常に深い意味が込められているのですが、ここでは日常的なレベルで、経営者のあり方の教えとして学びたいと思います。

   「主・師・親の三徳」

 日蓮聖人はこの経文から主・師・親の三徳を導き出してお釈迦さまのお徳を讃歎なさったと言われています。
 庭野日敬師によれば、主の徳とは一切の衆生を守護してくださること、師の徳とは一切の衆生を教え導いてくださること、親の徳とは一切の衆生を慈愛してくださることです。(庭野日敬著『新釈法華三部経』佼成出版社)
 主・師・親の三徳は、お釈迦さまのお徳として説かれていますが、私たちが具えるべき徳であることは言うまでもありません。とりわけ、人びとのリーダーの立場にある経営者は、是非とも身につけるべき徳でありましょう。
 実際、人徳の高い経営者のもとに、すぐれた従業員が揃っている例を世間に見ることは、さして難しいことではありません。

   「経営者の心構え」

 主・師・親の三徳を経営者の心構えとするならば、具体的には何を考え、何をすればいいのでしょうか。
 主の徳とは、一切衆生を守護することですから、経営者は従業員を守護することになります。
 従業員が人間として生活し、人生を送ることができるような条件づくりをすることだといっていいと思います。従業員が衣食住をまかなえるように配慮したり、社内にはたらきやすい環境を整備したり、社外からのあつれきから従業員を守ったり、さまざまな局面が考えられます。
 一方でルール違反をしたり、周囲に迷惑をかけたりする従業員に対して、たしなめたり処分したりするのも、主の徳の発揮の一面でありましょう。このときも、従業員の人間性を重視するからこそ処分するのだということを忘れてはならないと思います。
 師の徳とは、一切の衆生を教え導くことですから、経営者は従業員を教え導かなければなりません。
 従業員に向かって「こんなことも分からないのか」となじっている経営者を見ることがありますが、分かっていないのが事実であれば、教えるしかありません。
 経営理念の大切さがよく言われていますが、経営理念を従業員に伝えるだけでなく、従業員の行動が経営理念に沿うように導くのは、根本的には経営者の仕事です。
 親の徳とは、一切衆生を慈愛することですから、経営者は従業員を慈しみの心で大切にするのが本当です。従業員はみんな人間です。人間らしい仕事をすることができるよに、真に人間らしく生きることができるように、今を導き、将来を指導する必要があります。
 人事管理、労務管理は、そのような精神とそのような方法で行うのが本当です。採用も、配置も、解雇も、親の徳の現れとしてのものであるべきです。
 このような話は、夢物語に聞こえたり、実現不能な理想論と思われたりすることがあります。それは人間性に根ざした経営がまだまだ根付いていないからであって、心ある経営者は、自ら率先して主・師・親の三徳を発揮するリーダーとなり、世間に模範を示し、潮流を作っていただきたいと願っています。