【法華三部経を学ぶ その二十三】 孤独な人々        浪   宏 友


 法華経の化城喩品に不思議な一節がある。

 大通智勝という名の仏さまが正覚を得たとき、世界中が喜びに打ち震えた。同時に、この世界の中で今まで日の光も月の光も届かなかったところが、にわかに明るくなった。するとそこにいた人々が、お互いに顔を見合せながら驚きの声を発した。「自分しかいなかったこの世界に、急に大勢の人々が現れた。これはいったいどうしたことだろう」

 短いこの一節を、私はこれまで読み過ごしてきたが、経営コンサルタントの経験を重ねるうちに、ここには人間存在の本質が語られていることに思い至った。

 この人々は、前々からこの世界に住み、一緒に生活をしてきたのである。にもかかわらず、暗黒に閉ざされて互いに相手の存在を認識することが出来なかった。この世界には、自分一人しかいないものと思い込んでいたのだ。

 都会の雑踏に立ったとき、ひどく孤独だったことを思い出す。行き交う人々とぶつかり合いながら歩いているのに、人間的な交流は全くない。互いに、生きている物体になっている。
 多くの男達が言う。会社にも家庭にも居場所がない。
 こんな不安を口にする人もいる。危機的な状況に追い込まれても、救いの手を差し伸べてくれる人はいない。

 こうした状況はこの経文の光がみなぎる前の世界に重なる。周囲に大勢の人影はあっても、自分一人で生きていくほかはない。まさしく孤独な暗黒世界ではないか。

 ある日、にわかに世界が明るくなった。すると、自分のまわりに大勢の人々がいるのが見えた。あまりの出来事にただただ驚くばかりであった。
 これからは孤独ではない。大勢の人々と、仲良くやっていける。困ったときには助けてもらえる。人間と人間のつきあいが、ようやく始まる。

 このような劇的な変化が何故起きたのであろうか。この光はどこから来たのであろうか。もちろん、大通智勝仏が正覚を得て、人間世界に、真の智慧がもたらされたからである。

 真の智慧は語ってくれる。人は周囲の人々と、互いに生かし合い生かされ合っているとき、真に人間として生きている、と。
 周囲の人々と制度的・物質的にはつながっていても、心のつながりが薄れ、親しみを持てず、信頼し合えない状態では、人間としての関係は断ち切れているとしか言いようがない。
 そのような人は、「人」であっても「人間」ではない。孤独の暗黒に沈む人になってしまうのである。

 仏の正覚の光を受け入れたときから、「人」は「人間」へと変身する。正覚の光を受け入れるとは、仏の教えに沿って生きていくことである。そのためには、仏の教えを学ばなければいけない。そこには、諸法無我の教えが説かれ、人と人との関係のありかたが、分かりやすく、明るく、温かく説かれている。
 明るく、温かく、創造的な人間関係こそ、人間存在の本質であると、諸法無我は語ってくれる。

 経営・ビジネスの世界は、人と人とのつながりの世界である。この世界で真に成功しようと思うならば、自らを人間に育て上げなければならない。すべては、人間から出発するのであって、決して人から始まるのではないことを、深く考えるべきである。
 私はそう信じて止まない。