【法華三部経を学ぶ その二十五】 人間関係の教え       浪   宏 友


  安楽行

 妙法蓮華経の第十四章は、「安楽行」と題されている。この「安楽」を現代の感覚で「安らかで楽なこと」と取るのは間違いである。
 ここでは「安」は「安らかな心」であり、「楽」は「自ら願って」である。「安楽行」とは、「いかなる困難に遭遇しようとも、いかなる苦境に立たされようとも、いつも安らかな心で自ら願って真理の道を歩む」という意味である。
 現代の世相を見ても、人々のためになることをしようとすると大変な困難に遭遇する。良いことをするのだからスムーズに行ってもよさそうなものだが、かえって多くの障害が行く手を阻んだり、誤解を受けて非難の的になることさえある。
 そんなときでも恨んだり憎んだりせず、争いを起こすこともなく、取りかかったことを放り出しもせず、安らかな心で自ら願って、価値あることを行ない続けるのが安楽行なのである。
 法華経に説かれる安楽行は、現代感覚の安楽とはまったく逆の内容になっていると言えるであろう。

  四つの安楽行

 ここには、四つの安楽行が説かれている。
 第一は身安楽行(しんあんらくぎょう)である。身安楽行には行処(ぎょうしょ)と親近処(しんごんしょ)があり、さらに親近処には初(はじめ)の親近処と第二の親近処がある。
 行処は、自分自身の身のふるまいについての基本的な心得である。
 親近処は、世間の人々との交際において必要な基本的な心得である。
 初の親近処には、世間にはさまざまな人がいてさまざまなすがたを見せるけれども、だれに対してでも欲望を抱いて近づいたり、相手の雰囲気に巻き込まれて主体性を失ったりしないようにと戒められている。
 第二の親近処では、ものごとの本当のすがたを見ることが勧められている。すなわち、どんな人と接するときでも、人間の本質を見つめ続けること、その人のありのままをそっくり受け取ることなどである。
 安楽行の第二は口安楽行(くあんらくぎょう)である。ここでは、言葉づかいのありかたや、言ってはならない言葉などが戒められている。
 安楽行の第三は意安楽行(いあんらくぎょう)である。嫉妬する心やへつらう心を持たず、人に対して悪意などを持つことなく、人々を思いやりながら常に安らかな心で真理に導くようにと説かれている。
 安楽行の第四は誓願安楽行(せいがんあんらくぎょう)である。ここでは、あらゆる人を真の人間らしい生きかたに導こうと誓願し、同時にそのための力を備えた自分になろうという誓願を起こし、その誓願に向かってまっしぐらに努力することが勧められている。
 妙法蓮華経は、真の人間として生きる道が説かれた教えであるが、その具体的なありかたが安楽行として示されている。

  人間関係の基礎

 これら四つの安楽行をよくよく検討してみれば、正しい人間関係のありかたが説かれていることに気付く。
 世間のために役立とうとする人が、世間の人々とどのように接し、どのように人間関係を結んでいけば良いのかが、懇切に説かれている。
 身安楽行の行処では、まず自分自身を整える。乱れた心、曲がった精神、理に外れた行動をしているようでは、人々とより良い人間関係を結ぶことなどできるはずがない。自分自身の心と行いが真理に合っていることが、より良い人間関係を結ぶための基本条件なのである。
 初の親近処では、いかなる人と接するときでも、真理の道から外れないように自分自身を保ち続けようと努める。相手からなんらかの利益を得ようというような下心を持っていれば、相手の機嫌を取るために真理の道から外れてしまうこともある。あるいは、相手のもっともらしい言葉に引っかかったり、雰囲気に巻き込まれたりして、気がついたら真理の道から外れていたというようなこともある。そんなことを繰り返していれば、自覚のないまま、いつしか自分自身が心いやしい人間になってしまうであろう。
 第二の親近処では、いかなる人と接しようとも、自分自身は真理の道から外れることなく、できるなら相手を真理の道に導き入れつつより良い人間関係を結ぶ努力を重ねる。
 現代社会において人と接するとき、もっとも重要な要素は言葉であろう。口安楽行では、人の人格を傷つける言葉、人を真実から遠ざける言葉、自分の身を守るためだけの無責任な言葉。そんな言葉を使うことなく、人を生かす言葉を語ることに勧める。
 言葉や行為は心から生れる。そこで意安楽行では、自分本位の心や相手に対する悪意を抱くことなく、安らかで温かい心を養う。
 このようにして、より多くの人々とより良い人間関係を結べる自分になろうとする願いと努力は、明るい未来を期待させる。これが誓願安楽行が言いたいことのひとつであろう。
 安楽行の教えは私たちに、人間関係の正しいありかたを示し、人間関係で生じる困難に対する取り組みかたを示しつつ、大きな勇気を与えてくれるのである。

  忍辱

 安楽行は、身安楽行の行処から始まっている。その冒頭は「忍辱(にんにく)の地に住す」である。
よく学べば、安楽行は「忍辱」をバックボーンにしていることが分かる。
 「忍辱」は「辱めを忍ぶ」となっているが、その真意は、庭野日敬師によれば「寛容」である。
 自分に都合の悪いことが続いても、決して腹を立てたり恨んだりしない。自分に損害や侮辱を与えるような相手に対しても、怒りや恨みを覚えたりしない。いや、かえって何とか救ってあげたいという気持ちを起こす。
 逆に、大きな成果を上げて人から称賛されるようなことがあっても、天狗になったりしない。
 こうしてどんな苦境でも、どんな得意な場面でも大きな心でものごとを受けいれつつ、謙虚な気持ちで真理の道を歩き続ける。それが、忍辱であり寛容である。
 妙法蓮華経では、忍辱の修行が、第十章(法師品)から第十五章(従地涌出品)までを貫いている。その精神は妙法蓮華経の全般にみなぎっている。
 第十三章(勧持品)では、真理の道を歩み人々を真理の道に導き入れようと努力する人々が、妨害されたり迫害を受けたときの対処法が説かれている。それは「忍辱の鎧(よろい)を着る」ことである。ここには武器を持って闘えという教えはない。ひたすら、真の人間として生きる姿を通して、人々を救えと言っている。忍辱すなわち寛容も、ここまで徹底されるのである。
 「真の人間として生きる」という生きかたは一見ひ弱そうに見えたとしても、実は筋金の入った強さを持つ生きかたであることが、ここに示されているように思われてならない。
 まさしく、安楽行の土台すなわち人間関係の土台は忍辱であり、寛容なのであった。