【法華三部経を学ぶ その二十六】 ビジネス縁起観        浪   宏 友


  存在の法則

 「縁起」という言葉は、人々から「縁起がいい」とか「○○寺縁起」というように軽い意味で使われているかと思えば、学者や僧侶の方々から重々しく扱われていたりもする。私にはなかなか真意が分からなかった。それでも少しずつ学び進むうちに、だんだんとほどけはじめてきた。
 二千五百年ほど前のインドで、一人の修行者が存在の法則を直観した。悟りとも正覚ともいう。その修行者とは釈迦牟尼世尊である。
 正覚に至った世尊は、人々を悟りに導くために説法を続けた。このとき存在の法則を語るために用いた言葉のひとつが「縁起」であった。
 仏教学者増谷文雄博士によれば、縁起とは「縁りて起こること」というほどの意味であって、これによって一切の存在の関係性を表現するのだという。このほかにも、縁生、因縁、相依性などの言葉が用いられているという。
 また釈迦牟尼世尊がしばしば用いられたという次の句を、増谷文雄博士は縁起の公式とよんでいる。

 これあればこれあり
 これ生ずればこれ生ず
 これなければこれなし
 これ滅すればこれ滅す

 一切の存在をこの公式によって思考するものが、すなわち、よく縁起の法則を会得したものにほかならないと博士は語っている。
 存在の法則は釈迦牟尼世尊によってさまざまに表現されてきたが、それは説法を聞く人に応じ、説法の目的に応じてなされた世尊の工夫なのであろうと推察している。

  十如是

 私を釈迦牟尼世尊の教えの道に導いてくださったのは紛れもなく庭野日敬師である。釈迦牟尼世尊の遠大な道を私のような愚者がこの生涯にどれほど進めるかは分からないけれど、歩みだけは続けたいと願っている。それがせめてもの感謝の証だと思うからである。
 庭野日敬師の依拠する「妙法蓮華経」には、十如是と呼ばれる一節がある。これもまた存在の法則の表現のひとつである。

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本 末究竟等なり。

 庭野日敬師は著書『法華三部経 各品のあらましと要点』で、これを分かりやすく現代語になおしてくださった。

やめよう。舎利弗。これを説明してみても、わかるはずがないと思います。なぜならば、わたしが究めた真理というものは、仏と仏のあいだでしか理解することのできないものであるからです。それは、この世のすべての現象(諸法)には、もちまえの相(すがた形)があり、もちまえの性(性質)があり、もちまえの体(現象のうえでの主体)があり、もちまえの力(潜在能力)があり、その潜在能力がはたらきだしていろいろな作(作用)をするときは、その因(原因)・縁(条件)によって千差万別の果(結果)・報(あとに残す影響)をつくりだすものであるが、それらの変化はただひとつの真理にもとづくものであり、現象のうえでは千差万別に見えるけれどもその相から報まではつねに等しい(本末究竟等)のである……ということです。

 十如是の教えは、整理された分かりやすい形式で表現されているが、その内容に立ち入ろうとすると、広さ深さ複雑さに戸惑いを覚える。釈迦牟尼世尊が経文の中で、これは難しいぞと心配している理由が、このあたりにもあるのかもしれない。
 しかし固定観念や先入観を捨て、虚心坦懐に向き合えば、十如是は大切なことがらをまざまざとみせてくれる。
 私は十如是の教えを基礎にして、自分自身の人生・生活に取り組み、また世間の方々のためにビジネス・経営のコンサルティングに取り組んできた。今日の私があるのは、そしていくらかでも世間のお役に立つことができるのは、庭野日敬師に導かれて、十如是の教えと取り組み続けることができているからだと思っている。

  コンサルティング

 私がコンサルティングを行なうときは、クライアントと向き合いながら、十如是を主体とした縁起の法を活用する。縁起の法によってクライアントのこれまでを振り返り、これからを方向づけ、さらには具体的な道筋や方法の策定まで共に研究する。
 私の使命は重要である。まず、クライアントに自分自身を自覚してもらわなければならない。今を起点にし未来に向かって正しく歩む方向、道筋、方法などを見定めてもらわなければならない。そして実際に歩き始めてもらわなければならない。歩き始めたクライアントは、目の前に生じるさまざまなできごとにたじろぎ、つまずき、途方に暮れる。こうした困難を、なんとか乗り越えてもらわねばならない。
 共に悩み共に考え、導いたり励ましたり支えたりする。それが私の役目である。
 このようにして多くの方々と向き合ってきた私は、縁起の法を正しく活用すれば、現実が明らかになり、未来が開け、具体的な道筋が見えてくることを実感している。私はしばしばクライアントから感謝されるけれども、本当に感謝されるべきは縁起の法にほかならない。

  ビジネス縁起観

 「縁起観」という言葉の学術的な定義を私は知らない。長い間汗まみれの現場で縁起の法に支えられてきた私には「ものごとを縁起の法で見る、縁起の法で考える、縁起の法で行なう」ことが縁起観である。
 今年(二〇〇六年)の七月五日、「ビジネス縁起観」なる発想が誕生した。この日私は友人と共に新幹線に乗車していた。病床にある恩師を見舞うためである。その途上、友人との語り合いの中からこの言葉が浮かんできたのである。恩師はそののち日を経ずして他界された。今にして思えば、これは最後の最後に恩師が残してくださった私への遺産だったのかもしれない。
 縁起の法を若いころから学び活用してきた私だったが、経営コンサルタントを開業してみると、まだまだ知らないことだらけであった。経営・ビジネスにおける諸問題と取り組むためには、改めて多くのことを学び直さなければならなかった。
 学び直してみると、ビジネス・経営の世界といえども、縁起の法から導き出される道筋や方法は、当たり前のことばかりであった。
 ところが、多くの経営者がそこにつまずいていた。多くのビジネスパーソンがそこで迷っていた。
 不思議なことに、当たり前のことが分からず、当たり前のことができず、そのために自ら苦しみ続けているのであった。その原因の多くは、どうやら過大な欲望、歪んだ欲望にあるらしく、また自分の心や行動が、自分や周囲に何をもたらしているのかが分からないことも、要因になっているらしく思われた。
 この人々が、自らよりよい未来を開くための具体的な道すじを縁起の法は示してくれる。しかし、耳を傾ける人は少なかった。
 苦しみ迷う人々が、縁起の法に目を向けるには、自覚的に学ぶには、自ら実践するようになるにはどうすればよいか。大きな問題意識を抱えながらあの新幹線に乗車し、発想を得たのであった。
 「ビジネス縁起観」とは、ビジネス・経営におけるものごとを、縁起の法で見る、縁起の法で考える、縁起の法で行なうことである。この呼び名とそれに相応しいアプローチによって、縁起観が経営者・ビジネスパーソンの身近なものとなり未来を開く力となることを目指して、私は研鑽を続けることとなる。

  世法を生かす正法

 妙法蓮華経法師功徳品に次の一節がある。妙法蓮華経を絶えず学び実践し世間に伝える努力をしている人についてのことである。

若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん。

 庭野日敬師による現代語訳は次の通りである。

もしその人が、日常生活についての教えや、世の中を治めるための言論や、産業についての指導を行なっても、それはおのずから正法に合致するものでありましょう。

 これを受けて庭野日敬師は次のように言っている。

正法というものは、けっしてたんに精神的な、個人的なものではなく、かならず社会へのひろがりをもつものです。そして世法を正しく生かすものです。そうでなければ、究極において人類全体を救うことはできないのです。このことは、よくよく胸に刻んでおきたいものであります。

 「ビジネス縁起観」なる発想が師の教えに沿うものとなるように、私は一歩を進めなければならない。