【法華三部経を学ぶ その二十九】 名利と善根        浪   宏 友


  ◇求 名

 妙法蓮華経序品に次のようなエピソードが述べられています。庭野日敬師の著書『新釈法華三部経 第二巻』から学びました。

 昔、妙光菩薩の八百人の弟子のなかに、求名という人がいました。利己的な欲望に対する執着心が強く、そのために、いろいろと教えを学んでも、ほんとうの意味が理解できず、忘れてしまうこともしばしばでした。

 この弟子は、本来の修行を怠ける心が強く、名誉や利益に対する欲望に心をとらわれていました。そして、名利(名声と利益)を求める気持ちから、いつも上流階級の家に出入りして遊び呆けていましたので、習ったことも忘れ、教えの精神を理解することもなかなか出来ませんでした。

 こんないきさつがあったので、求名という名がつけられていたのです。求名とは、名声を欲する者という意味だそうです。

 庭野日敬師によれば、利益を得たいとか、名声を得たいとかいう利己的な欲望にばかり心がかまけていますと、教えを聞いても、それを自分本位に解釈しますからなかなかその真義に通利(通も利も、とおるということ)することができません。しかも上の空で聞いていますから、よく忘れるのです。
 ものごとを学ぼうとする私たちにとっては厳しくも大切な戒めであると想います。

  ◇自分本位

   仏の教えを通して、私たちは、いつでも、どこでも、だれにでもあてはまる普遍の真理を学ぶことができます。この世のありとあらゆるものを生かしている真理に、自分も生かされ、他の人々も生かされ、世間も生かされていることを知ることができます。
 仏の教えを学び実践する努力をたゆみなく続けていると、自分自身のはたらきが自分を生かし、他人を生かし、世間を生かすようになり、自分が真に生きていることを実感することが出来るようになります。
 ところが、自分本位の欲望に執着したり名声を求めて人々の歓心を買おうとするような生活をしていると、このような実感を得ることができません。教えを学んで理解したつもりでも肝心な所は聞き漏らしたり、自分本位に曲げて解釈します。また、自分に都合の悪い所はさっさと忘れてしまったりします。
 このような人が教えを実践したとしても、正しい実践ができるわけもなく、自分は正しいと思い込みながら誤った道を突き進んで、人々に迷惑をかけたり自分自身を傷つけたりしてしまいます。
 実に不幸な状態なのですが、欲望や名声にとらわれているために、気づくこともできないのです。

  ◇求名の目覚め

    エピソードの続きを読みましょう。
 名声や利益を求めて肝心の修行を怠けていた求名も、妙光菩薩の弟子として教えを聞き続けたおかげで、少しずつ善行を積み重ねていくことができるようになりました。
 長い間そのような毎日が続いたのだと思いますが、そのうちに名利を求める心が薄らいで、仏の教えがだんだん理解できるようになりました。学んだ教えに感謝の心を起こし、教えの通りに実践し、教えを尊ぶようになりました。かつて求名と呼ばれていた弟子も、このようにして教えがすっかり身につくと、立派な菩薩となることができたのでした。
 その時の妙光菩薩は現在の文殊菩薩であり、求名と呼ばれていた弟子は弥勒菩薩だと明かしてエピソードは終わります。

  ◇善根を植える

 偉大な慈悲の持ち主として人々から尊敬される弥勒菩薩が、はるか昔には私たちと同じ凡人だったというエピソードに触れて、私は弥勒菩薩に深い親近感を覚えました。同時に弥勒菩薩の慈悲が私たちの迷いの現実を踏まえていることに気づくことができました。
 教えを満足に聞くこともできず、満足に理解することもできない、そしてたどたどしい修行しかできない私たちであっても、長い間努力を続ければ向上の道を歩むことができるのだと、このエピソードは語っているように思われます。
 経文には「善根」という言葉がでてきます。善根とは善を生ずるもとということで、善い行いを指しています。善い行いをすると、自分自身が浄まりますから、さらに善いことができるようになります。その繰り返しを通して、自分自身が一歩、一歩理想的な人格に向って向上していくことが出来るわけです。
 求名もさまざまな善根を植えたことによって、多くの仏さまに出会うことができ、教えを受けることができました。名声や利益に執着する心が無くなり、教えを正しく学び、正しく理解し、正しく実践することができるようになりました。こうして、真実の人生を歩むことができるようになったのです。
 自分本位の欲望に執着する危うい生きかた。
 教えを学んで善根を植え続け、成長を続ける生きかた。
 ふたつの生きかたの違いと意義をこのエピソードからくみ取って、私たちも、真に意義ある生活・人生を送りたいものだと思います。