【法華三部経を学ぶ その三十一】 諸仏の願い        浪   宏 友


  ◇「開・示・悟・入」

 妙法蓮華経方便品に、極めて重大なことが説かれています。「開・示・悟・入」の四仏知見と言われる一節です。庭野日敬師の現代語訳(庭野日敬著『新釈法華三部経2』佼成出版社)で、学びたいと思います。

「舎利弗よ。いまわたしは、もろもろの仏はただ一つの大事な目的のために、この世に出現するものであると説きましたが、その大事な目的とは、いったい何でしょうか。」

 この一節が重大なのは、ここにありますように、仏すなわち釈迦牟尼世尊が、何のために教えを説いたのかが明らかにされるからです。釈迦牟尼世尊のあらゆる教えが、この目的に向かって説かれているのです。

「ほかでもありません。もろもろの仏は、すべての人に仏の智慧に目をひらかせ、そうすることによっておのずから清らかな心を得させようというねがいのために、この世に出現するのです。
 また、一切衆生の仏性の平等をしり、すべてのものごとの実相をみとおしている仏の智慧の広大無辺さを示し、すべての人びとがそのような智慧によって世の中のものごとをみるように導きたいというねがいから、諸仏はこの世に出現されるのです。
 また、そういう仏の智慧を、自らの体験によって身にしみて悟らせるために、諸仏はこの世に出現されるのです。
 また、そういう仏の智慧を成就する道へすべての人を導き入れるために、諸仏はこの世に出現されるのです。」

 これが諸仏の目的であり、衆生を仏の智慧に導く順序ですが、私たちの側から見れば、仏の教えを受けて最高の境地に至るまでの順序にほかなりません。
 この経文は、つぎのように締めくくられています。

「舎利弗よ、このように、すべての人を〈仏の智慧に目を『開かせ』、仏の智慧の実際を『示し』、仏の智慧を体験によって『悟らせ』、仏の智慧を成就する道に導き『入れ』たい〉というのが、仏がこの世に出現されるただ一つの大事な目的なのです。」

 庭野日敬師は、ここで繰り返されている「仏知見」について次のように解説しています。

「仏知見というのは、いうまでもなく仏の智慧です。仏の智慧は、この世のあらゆるものごとの実相を見きわめるものでありますが、これをおおづかみにわければ、すべてのものごとの本質の平等相と、現象における差別相の二つを明らかに見とおし、そしてその二つを総合した智慧……それが仏の智慧であります。」

 諸仏はこのような願いを持って、この世に出現されるというのですが、諸仏というからには、釈迦牟尼世尊だけでなく、阿弥陀仏も、薬師如来も、毘盧遮那仏も、大日如来も、この願いをもって出現されたのにちがいありません。諸仏の弟子である観世音菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩その他の菩薩たちも、同じ願いをもってわれわれの前に姿を現したのでありましょう。
 仏や菩薩がさまざまな名前、さまざまなすがた、さまざまなはたらきをもって出現するのは、人間が持つ多様な願いに対応するためであると教えてもらったことがあります。仏・菩薩は多様な人間に対応しつつも、根本的には、この四つの願いを成就するために、さまざまなはたらきを現しているのだということなのでありましょう。

  ◇「開・示・悟・入」の意義

   私は現代に生きる経営コンサルタントとして、現代の人々に仏の願いが実現するように努力したいと思いました。そこで、縁起の法則を基盤とした経営・ビジネスに関する理論とノウハウを開発し、ビジネス縁起観とネーミングしました。ビジネス縁起観の講義を繰り返すうちに「開・示・悟・入」の順序は、仏の救いの順序と見ることもできることに気付きました。
 ここで、「開・示・悟・入」の四仏知見の意義を考えてみたいと思います。

【開仏知見】
 私はビジネス縁起観の基礎理論として、縁起の法則を説かせていただきます。また、縁起の法則を基盤とした理論やノウハウを説かせていただきます。
 学んで理解してくださった方々は、必ず明るい笑顔を見せてくださいます。その笑顔が私には、仏の智慧に目を開いてくださったあかしに思えます。
 これまで迷いに迷い、苦しみに苦しんできた方が、心をほぐして安らかな表情に戻るのを見たとき、この方も救いを得てくださったのだなあと思います。
 振り返ってみれば、この最初の救いが得られた人だけが次のステップに足を踏み入れているようです。言い換えれば、最初の救いを得た人でなければ、より高くより深い救いに歩み入ることができないわけです。
 当たり前といえば当たり前ですが、「開仏知見」に至るか至らないかは、私の説きかた次第ということになれば、大きな責任を感じないではいられません。

【示仏知見】
 ビジネス縁起観の話を通して縁起の法則に目を開いてくださった方は、これまでの自分はどうだったのか、現在抱えている問題はどうなのかと、自分自身の具体的なことを知りたくなります。
 私はこの方の抱えている問題を伺い、縁起の法則に当てはめて分析・総合していきます。すると、さまざまなことが明らかになって、ご本人がびっくりなさいます。あたかも、停電していた部屋の電灯が点いて、散らかっている部屋の様子が見えたような感じです。
 ご本人自身がどうにも分からなかったことが、縁起の法則がすらすらと説き明かしてくれる。これが仏の智慧を示すという段階なのであろうと私は考えました。
 ここまでくると、その方のあるべき姿が具体的に浮かび上がってきます。その方の未来が具体的に開けてきます。これまでどうすればいいのか分からずに、右往左往していたことを考えれば、これは大きな救いです。「示仏知見」はより深い救いを私たちにもたらしてくださるのです。
 私の役割は、縁起の法則と実際とが表裏一体であることを明確に示して、縁起の法則でものごとに取り組む意義を実感していただけるように、ご一緒に研鑽させていただくことだと心がけています。

【悟仏知見】
 ビジネス縁起観の理論とノウハウを学び、自分は何をすればいいのかなどを理解できた人が、実際の場で学んだ通りに実践してくださいますと、学んだ通りの現象が生じるのを見てびっくりなさいます。
 ここから、ビジネス縁起観の理論とノウハウのおおもとである「縁起の法則」の意義を得心してくだされば、これが「仏の智慧を悟る」という段階になるのではないでしょうか。
 自分本位のことばかり考えたり、言ったり、行なったりしてきたいままでの自分は間違っていた。
真理に合った正しい道を歩むことが大切なのだ。そのように確信することができれば、これは大きな救いです。ここから真の人生が始まり、明るい未来が広がって来るからです。
 「悟仏知見」を考えれば、私は、学んでくださる方が現実の場で実践し、救いを得てくださるために、具体的で適切な説きかたができる力をもたなければなりません。そのためには、より深く仏の智慧をいただく努力を重ねなければなりません。

【入仏知見】
 仏の智慧の尊さを体験し、これからは真理の道を歩もうと心に決めた人は、熱心に縁起の法則を学び、現実の場で活用して、自分自身を成長させる努力に入ります。この段階が「仏の智慧の道に入る」ということでありましょう。
 ここまでくる人は、私の体験では稀にしか居ませんでした。それだけに貴重であり尊い人であると思います。
 「入仏知見」の境地に入れば、真の人生を歩むことができますから、これこそ真の救いを得たと言っていいと思います。
 私の目的もここに置くべきであって、そのためには私自身がより深く、仏の智慧の道に入るほかはありません。

  ◇救いを逃す人々

    こうして、開・示・悟・入の順序に従って縁起の法則を学ぶことにより、より高くより深い救いをいただくことができることが分かりました。
 しかしここに危険が潜んでいることに気をつけなければなりません。
 縁起の法則を学んだだけでは、具体的にはまだ何も解決していないのですが、すでに何もかも解決してしまったような錯覚に陥る人があります。このため、成すべきことを成さず、何の進展もないという状態になることがあります。
 そのほかにも、縁起の法則を「良い話だ」などと聞き流しているだけの人、現実の問題が縁起の法則で解明できることを知っても感心しているばかりで学ぼうとしない人、法則を理解しても実践しようとしない人、実践したら問題が解決したといって喜びながらもとの過ちを繰り返しはじめる人、学んだことを自分の成長には結びつけずに他人を非難する道具にしてしまう人などなど。
 まだまだいろいろなパターンがありますが、手の届くところまで来ていながら、真理の道に足を踏み入れない人を見ると、もどかしさを感じないではいられません。このあたりは、説く側の私が留意しなければならないことだと思います。
 あと一歩の踏み出しをさせてあげられないのは、私の力不足であることを思えば、一刻も早く力をつける努力を重ねるほかはないと思うばかりです。