【法華三部経を学ぶ その三十三】 パワハラへの対応        浪   宏 友


 法華経の勧持品に、次の一節があります。庭野日敬師の現代語訳で見てみましょう。

濁りきった末の世には、いろいろと恐ろしいことがありましょう。悪鬼が人の心の中にしのびこんで、わたくしどもを罵(ののし)ったり、毀(そし)ったり、辱(はずか)しめたりすることもありましょう。
(庭野日敬著『新釈法華三部経6』)

 これは、現代社会でも問題のひとつとなっているパワーハラスメント、いわゆるパワハラであると見ることができます。
 ここにいう「わたくしども」とは、正しい教えによって正しい人生・生活を営みつつ、他の人にもそのような生きかたを勧めている人々です。そのような価値ある努力をしている人に対して、パワハラを行なう不心得者がいるわけです。このような仕打ちに対する態度が次に述べられています。

しかしわたくしどもは、仏さまを敬い信ずるがゆえに、忍辱の鎧を着てそれを忍びましょう。(同書)

 基本的な態度は、仏さまを敬い信じて忍ぶことなのです。力で対抗しようというのではありません。
 ここに「鎧を着る」とあることに私は注目しました。「鎧」は外部からの攻撃に対して身を守るものです。では、パワハラに対する「忍辱の鎧」とはどういうものでしょうか。
 『六方礼経』に「恐怖によって非道を行なわない」という教えが説かれているそうです。「恐怖の心が起っても、自分の行動を誤らない」と読むことができます。そのためには、しっかりした理性のはたらきが要請されます。
 パワハラは、被害者に恐怖をもたらします。多くの被害者が恐怖によって自分を見失い、正しい対処ができなくなります。ついには、被害者自身が自分の人間性を否定するようにさえなってしまうのです。
 忍辱の鎧を着るとは、パワハラを受けても自分自身を損なわない自分になること、と解釈することも可能ではないでしょうか。
 相手の誤った言動を受け止めながらも心を乱さず、正しい道を見失うことなく、自分の成すべきことを成し、歩むべき道を歩み続ける。そのような自分となることが、忍辱の鎧を着ることであると私は考えました。
 庭野日敬師は、別のところで忍辱の極致は寛容であると語り、また寛容性を高めることが忍辱の心を深めることだと説いています。
忍辱の鎧の真の内容は、寛容の心であるのかもしれません。パワハラの加害者の人間性を信じながら、現実のパワハラに対しては正しく対処していくということなのではないでしょうか。
 このような自分になるためには、やはり、智慧と智慧に基づく実行力を身につけるほかないものと、私は考えています。