詩誌「詩人散歩」(平成31年春号)

yuyake

◆これまでの【詩編】を掲載しています。

  寒い夜              浪 宏友

忘れられた裏通り 埋もれた酒場
迷い込んだ少女がひとりつぶやいている

立ち去る人のうしろ姿を見送って
こらえきれずに旅立ったのだという

すぐそばに立っているような気がして
ついつい振り返ってしまうのだという

行くあてなどないけれど
もう あそこには帰れないのだという

聞くともなく 聞き 頷くともなく 頷き
静かにグラスを置いた

少女をあとにして凍てつく外に出る
風さえも訪れぬ暗く細い路地

見上げると
思いがけなく星がまたたいている

こんな寂びれた場末でも
覗いてみたくなったのだろうか

  母の形見             中原道代

暖かな部屋の窓から
青空が広がっている
外は氷点下
白いものが ふわふわ ふわふわ 舞っている
風花だ
きれいだなあ
山からの贈りもの

終戦間もない
寒いこの日に 私は生まれた
今日は 母の形見の時計のねじを巻く
私の腕で針が動き出した
日を重ね 年を重ね
母が願ったやさしい人に
今 私は なれたかな……

幼子が
私の顔をのぞきこむ
「おばあちゃん お誕生日 おめでとう!」

  牧師             伊藤一路

世界一のバーテンダーに選ばれた男性が
「僕はバーテンダーであるのと同時に
 牧師でありたい」
と言っていた一言が忘れられない
彼はお酒を飲みに来たお客さんの話を聞き
励ます時もあれば叱る時もあり
一杯だけ飲ませて家に帰す事もあり
朝まで付き合う事もあるという
彼にもお客さんにもお酒は一つのツール
そんな彼のお店でお酒を飲み
気持ちと心を豊かにしてお店を後にする
最終的にはこうありたい
目指すところは職人ではなく
美容師というツールを使った牧師でありたい
そんな美容師がいてもいいんじゃないかな
って道程は遠いけど・・・

  四季のつぶやき         大戸泰子

この香り 約束どおり 春が来た
沈丁花咲き 街に漂い

ストーブを 点けるか否か 迷う頃
春の嵐が 吹いたと聞けば

こいのぼり 空にふくらむ 夢魚
おさなき心 どこまで昇る

春風が コートを脱げと 誘うから
今日は身軽で 街を歩こう

君に似た 固い蕾の 梅の木も
心開けと 春待ちこがれ

  わからない           大場 惑

男は 困った
自分が 何処にいるのかわからない
人でもいれば
尋ねることもできるのだが
人影らしきものもない
「誰か居ませんか?」
喉までせりあがってきた声を
あわてて呑み込んだ
声を出したら
何もかも 
崩れてしまいそうな感じがしたのだ
男は歩き出した
足音がしなかった
それどころか
地面を踏んでいる感触すらない
男は 立ちすくんだ
息をひそめて
もういちど まわりを見回した
依然として
自分が 何処にいるのか
わからない