詩誌「詩人散歩」(平成12年秋号)
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 時計                   中野郁子

三回忌の前の日、お花、お供物のくだもの野菜、お菓子など買いおえてひと休み、午後四時すぎ仏間に足を踏み入れるといやに時計の秒針の音が大きく聞こえる。コチコチコチ……耳を澄ますとはっきりと確かに打っている。さてどの時計だろう、置時計二個、中くらいのは無音小さいのは近くでないと分からないくらいの低さ、とするとここ数年、止まっていた筈の掛けてあるリンゴ型の手作りの代物。秒針の動きは見えにくいけれどもまぎれもなく打っている時刻は合っていない。どうして今頃と考えてはっと思いついたことがある。それは亡き父のことだ。 それは明日の三回忌の仏花のこと。生前たんせいして植えたダリヤの赤、黄色の花が咲いている。何本かのダリヤとあじさいの花を切ってきて買ったお花と抱き合わせであげようと二、三日前まで思っていたのに、お店で買った花だけで済ませようとしていたわたしが居た。父はきっとそのことに気付いてほしかったのだろうと思った。 生前、仏様に供えるためのお花をたんせいして植えたダリヤの黄だいだい、赤色の花が咲いている。私は秋に球根を掘り出すこともしないで植えっぱなしのダリヤなのに、毎年季節になると愛らしく咲いてくれている。法事には、つい忙しさにまぎれて買ったものだけで間に合わせようとして私の心がさみしかったのだろうか。出掛けの帰り切ろうとはさみをべランダの棚に置いた。 時ならず鳴り出したこのアンティク調の時計は二十年前両親が揃ってシアトルに住む末娘の所へ行った時、あちらのお母さんがお土産にくれた物だった。親達にとっても捨てがたいものだったらしくいつ止ったのか覚えていない。もう数年は過ぎていると思う。 夜になって、ふと時計のことを思い出して音を聞きに部屋に入ってみたが、もう聞こえず秒針は動いていなかった。
 

 教育の荒廃              大場 惑

教育の荒廃は目に余るものがある。しかし、それはかなり以前から始まっていた。 教師たちの多くは、既に荒廃していた教育の中で育ち、教師になる過程で修正もされずに教壇に立った人 たちである気付いてみれば教師たちばかりでなく、親たちの多くもその通りであり、 社会を形成している人々の多くがその通りなのであった。それが現代なのであった。