詩誌「詩人散歩」(平成15年秋号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  余り                              大場 惑

 何か事件が起きると、その道の専門家が論評をしている。必ずといっていいくらい、人のやったことを非難している。

 当事者は判断しなければならない。それも、複雑で不鮮明で流動している状況の中で。しかし、判断しなければならない。だから判断する。神様じゃないのだから必ず答えに余りが出る。論評する人は、その余りを指摘して文句をつける。

 それじゃ、あんただったらどう判断するんですかと詰問したくなる。余りが出ない答えを出せるんですか、と。神様じゃないんだから出来るわけがない。出来もしないくせに、偉そうなことを言うなと逆に文句をつけたくなる。

 私は先ず普遍的な人間の立場に立って、事件の本質を見極めたい。そのうえで、当事者の立場に立って、当事者が見ているものを見て、考えたい。自分が当事者と同じ立場に立ったら、やはり同じ判断をするだろうからである。それから、当事者に見えていないものまで考えに入れて、出来るだけ余りを小さくするように努力したい。

 それでも、本当に正しい判断には行き着かないだろう。どんなに努力しても、事態のすべてを見極めることは不可能に違いないからである。

  おっ母さん                       山口ハル子


 今日は父さんが行っていたデイケアーの車が家の前を通って行った。私も時にはついて行き楽しく過した。午後は散歩をしたり輪になって歌を唄うこともあり、マイクがまわって来ると「おい今日は何を唄おうか、岸壁の母をいこうか」と言いながら仲良く唄った。夫の母は戦争で中国へ行った子を案じながら病床にありながら待っていた。 昭和二十一年四月無事故郷の土をふんだ。母は帰還する一週間前にかえらぬ人となっていた。一足おそかったねと、伯母が言ったと、お母さんと声を上げて泣いたと、折にふれて聞かされた。だれよりもおっ母さんに逢いたかったと。父親は四歳の時に亡くなっていたのでひとしおに逢いたかったのだろう。

 父さんもおっ母さんとつもる話をしながら浄土の道を旅していることだろう。

 手を引いて仲良く黄泉の国の道は果てしなく長いです。ゆっくりと旅をして下さい。お父さん。