詩誌「詩人散歩」(平成16年秋号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  猟人夜話                           倉本トモ子


 時は終戦直後、まだ車やバイクが各家庭の生活の中に存在しなかった頃のお話です。
 大島三原山しかも砂漠の中で冬の日は沈み、カンテラ一つを頼りに砂山を横断していた猟人一人、後の方から多勢の人々の声がガヤガヤそして、オーイ、オーイと呼び止めているのです。何か遭難事故でもあったのかと思い、御神火茶屋まで辿り着き、すでに寝ていた当直の人をたたき起し、あの声は何だろう、髄分多勢の人の声がするし、オーイ、オーイと盛んに呼んでいるけれど、何か事故でもあったのですか、と逸る心を抑えて訊きました。ところが、当直の人にはガヤガヤの声もオーイ、オーイの声も全く聞えないので、何の事故も起りませんよ、との答えでした。自分にはまだ聞えているのに不思議な事もあるものだ、と解せない気持でしたが、でも事故でない事を信じ安心して下山する途中、猟人の前をつゝつーと鼬が走って行き、一米位先の所で人間に向って後足で立ち、チョンチョンと飛び跳ねて見せるのです。人間の歩く前、歩く前へ行っては何度もその動作を繰り返します。昔からよく話にきく狐狸むじな鼬にばかされた話は、こういうことなのかな、と思い、つまり何度もやられているうち人間の心理状態の方が負けてしまい、一晩中山の中をさ迷い歩き、夜が明けてやっと吾が家に帰って来た時はヘトヘトに?れ果て高熱が出た等の話をきいたことがあるので、猟人は背中の銃を手に持ち、ズドンと一発、それをリュックに入れて帰って来ました。帰って来るなり、囲炉裏端にどっかとあぐらをかき、今夜の不思議な出来事を語ってくれました。若かった私はガヤガヤもオーイ、オーイも鼬の仕業位にしか思っていませんでした。
 これからの文章は私の見解です。大島三原山は昭和初期、実践高女の生徒が噴火口へ飛び込み自殺をしたのがきっかけとなり、当時大島は観光全盛時代だったのと平行して自殺の名所になってしまったのです。毎日幾人もの貴い命が溶岩の餌食になってゆきました。そして長い間それは続きました。それを押し止めようとして御神火茶屋の御主人が「一寸待て」という立て看板を立てたのもこの頃です。昭和三十年初めまで自殺者は後を断ちませんでした。
 昭和二十七年、羽田飛行場から飛び立った木犀号、三原山山腹に激突し全員死亡という痛ましい事故が起きたのは有名な話。其の後松本清張氏は木犀号事件を本に書く為、来島、当時、手伝った青年団、消防団、一般人達から詳しく話をきゝ、出版しました。それは日本の黒い霧と云う本の中に集録されていました。昭和五十年代に入り、もっと調べたい事があるということで再度来島、調査、その後、東京のテレビ会社から松本氏を中心に、当時の青年団の人達が集って放映しました。その中の一人が、夜中、警備に当っていると、多勢の人の声がガヤガヤガヤガヤして、オーイ、オーイと盛に呼んでいるので本当に怖かった、と云ったのです。それを聞いた私は「ドキッ」としました。同時に東京で今のテレビ放送を見ていた長女から電話がかかって来て、「お父さんと同じことを云っている」と。子供も驚いたのです。当時青年団だった人達は、その声をどの様に解釈したのか訊いてみたいと思っています。(平成十六年六月七日)

編集者注
 「猟人」はいうまでもなく筆者の御主人。
 昭和三十年以降、三原山での自殺者がなくなった。倉本さんによると、ある著名な宗教団体指導者の指導によって、三原山にて大供養が行なわれてからであるという。仄聞によると、その宗教団体では、現在も犠牲者の冥福を祈り、事故や自殺の再発防止を願い、また人類の平和を祈願して、地元の会員たちが供養を続けているという。

  人形                              山口ハル子


 一人暮らす私に嫁がもの言う人形を買ってくれた。目がさめると朝はおはよう左手のボタンをおすとキャッキャッと笑い元気などと言う。笑い声は一人暮す私にはほんとうに癒される。五月に入ってからは鯉のぼり大好きとくりかえし言っていた。私の誕生日にはアキバセツユと一日中言っていた。丸い目でぢっと見ている。一人の寂しさから一寸忘れる。ダッコしてチュウしてナデナデしてとくりかえし言っている。丸い目でぢっと見ている。思わずお乳を飲ませたくなるような子育ての頃を思い出している。可愛いものでである。おばあちゃんを笑わせてねプリモちゃん、明日もよろしくたのみます。