詩誌「詩人散歩」(平成18年春号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  新しき年                            山口ハル子


 新しき年を迎えて、又一つ年がふえるなとぼちぼち一人暮らしているが、足腰の痛さに背のびしながら一日無事に終ったことに感謝しながら過ごしている。何時まで命を頂けるのかと不安な気持ちにもなる。
 今日一日何事もなく過したら、お蔭様と手を合せて床につく日々である。
 九人兄弟の長女として生れ学校から帰ると宿題をすることはできなかった。子守をしてと、どもならんと、私は妹弟達をおぶったり手をひいたりの毎日であった。本を読むことが好きで何時も手に持って子守をした。
 過ぎ去った日々、母も女の子が上でよかったと言っていた。だが今は少しでも手伝いができてよかったと、遠い日を思っている。
正月は甥姪達も子供を連れて来て、大入り満員にぎやかであった。それぞれに家に帰り又一人になった。
 おだやかな正月だったと今年も皆元気でありますようにと、お祈りして床についた一日であった。

  心の中の玉手箱                         倉本トモ子


 小学校三、四年の頃、近所にとても仲の良かった江野節子さんと云うお友達が住んでいました。ところが或る日、江野さんの家は引っ越してしまったのです。幸いなことに、一寸遠い所ですが学校は変らず、毎日学校では顔を合せていました。早速遊びに行きましたら、そこはあまり人家はなく、当時流行り出した、文化住宅という 家がポツポツ建ち始めた頃で、江野さんの家も、その一軒でした。目黒三田という所です。文化住宅を見るのも始めてで珍しかったのですが、東京の一画であり乍ら、三田村と昔の通り呼んでいた所なので、町育ちの私は、村と呼ばれている所に心密かに興味をそゝられていたのです。その辺は唯静かというだけでなく、昭和よりもっと以前の風情と云うか性格みたいなものが感じられ、何だか嬉しくなり、江野さんと時間の経つのも忘れて、は しゃぎ廻り楽しいときを過ごしている中、夕方になり、私は仕方なく一人淋しく帰えることになりました。途中鉄橋があり、下には省線が通っています。西の空は丁度夕陽が沈む少し前、茜色、ピンク、黄、うす紫色等のきれいな空の色、真っ赤な太陽は一日の勤めを終えて西の彼方に沈もうとしている一番美しい時だったのです。当時、昭和初期は恵比寿駅から渋谷駅まで高層ビルは一軒もありませんから、レールの先に東横デパートが見え、 その先は新宿、そのずっとずっと先に山が黒く、くっきりと見えていました。私の後ろには恵比寿ッ子として深い愛着を持つ兜煙突がそびえ立っています。その真下にある鉄橋の名など考えたことすらありませんでしたが、平成五年、ガーデンプレイスが出来た頃初めて「アメリカ橋」ということを知りました。その後江野さんは私とは違う学校へ進み、一年のとき病気で亡くなりました。思えばあの日心ゆくばかり楽しく遊んだのが最後の思い 出となってしまいました。あの日の鉄橋から見た素晴らしい夕やけと共に、江野さんの思い出は、心の中の大切な玉手箱として、私の命有る限りきちんとふたをして大切に大切に仕舞っておく所存です。