詩誌「詩人散歩」(平成18年秋号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  五十年                             山口ハル子


 老人会の誕生会で今日は四、五、六月生れが六人私もその一人であった。私は結婚五十年の時の作文を読ませて頂きました。
 昭和二十四年私は二人目の子供が生れて四カ月目に主人は長い軍隊生活の無理がきたのか肋膜に水がたまり病院通いになった。収入がなくなり日々困るようになった。私はまだ二十八歳何をめそめそするなと自分を叱りとなりのうどん製造所から分けてもらい、宮崎市内のマーケットへ持って行きどうにか生計を立てた。質屋ののれんもくゞり下の子を背なに働いた。お蔭様で五カ月ほどで元気になりぽちぽちと主人も働けるようになり、再発もしないで過した。
 人の情けもいろいろと受けて当時を思い出しありがとうと思い出される。生きる日々に悪いことばかりはないと思った。
 杖をつきながらの日々であるが、食事も八百屋さんから配達してもらいおかずもつくり美味しく頂いている。明日も平和な一日でありますようにと手を合わせている。

 

  幽霊に逢った話                          倉本トモ子


 昭和十三年七月、暑い盛りの或る日の夜中、私は柱時計が十二時を打つのをベッドの中で確かに聞いた。  人は眠りに入るかまだ起きているかの丁度境目という時があるのです。十二打つのを全部きいてすぐ眠りに入ったらしいのですが、足の先の方からそろそろと重くなり、それが段々はっきりと重くなり、うすい掛布団の上から幽霊とおぼしきものは、私の両肩を二本の腕でむんずと掴み、もう一本の手で私の喉をしめつけたので目を醒しましたが、怖いのと喉を絞られて苦しいのとで息も出来ず声も出せず、動きたくても体全体を押さえつけられているので起き上る事も出来ず、唯恐ろしくて早く幽霊が立ち去ってくれないかと願うことしきり、その 中、私の 左耳の 側に幽霊が口を近付け、「言うの」?と言ったのです。幽霊の息使いまではっきり聞こえました。  それは私宅のよく知っている女の人の声でした。長い長い時間に感じられましたがどの位の時間だったのでしょう。重くのしかかっていた幽霊が次第に少しずつ軽くなり、やがて私から遠ざかって行き、私の体はいつも通り動ける様になりましたので、階下に寝ている父の所に飛んで行き、たった今の恐しい出来事を話しました。驚いた父は急いで二階の窓を調べましたが全部鍵がかゝっていました。  これは人間ではないのです。手が三本も有るのですから。幽霊の声は家の人の声でした。私は終生父には誰の声ということは言いませんでした。姉達にも言った事はありませんでしたが、あれから七十年経ち、その人も今は此の世に居ませんので、姪に初めて名を明しましたが、この稿ではやはり言えません。  こりごりした私は翌日からは姉達の居る家に帰りましたが、姉達が目を醒ましている間中は無事なのですが、スヤスヤという寝息が聞えて来ると、足の先がそろそろ重くなり幽霊がやって来るのです。でも口を訊いたのは初めの一回だけ、その後も不思議な事はありましたが、幽霊からものを言われたのは一回だけで済みました。  今迄生きて来た中で一番恐ろしい思い出です。(平成十八年七月記)