詩誌「詩人散歩」(平成19年夏号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  追憶富士登山                         倉本トモ子


 昭和十二・三年頃富士登山をしました。家の近くの富士講で募集しましたので、姉と共に申し込み皆さんの仲間に入れて頂いたときのことです。 当日がやってきて集合場所は恵比寿駅前、一番下は十二歳の男の子。その他は中年のおじさん達。先達(せんだつ)と言い一行の代表的立場の人は六十歳台浅井家の大旦那さんでした。女の人は私たち姉妹と角田丸のお嬢さまの三人だけでした。私にはマツ子姉が居たので一寸も心細いことはなく大変良い旅でした。此の文章は紀行文がねらいではありませんので旅の内容は省略させて頂きます。
 昔江戸には名主制度がありお上から預かった土地内に起る全てのことを名主が司っていたと聞いています。たとえば子供が生まれれば名付親になり預かっている土地内に若し悪事を働いた人が出れば名主の家の庭で裁きもするという風に受け持区域をきちんと責任持って司っていたということです。私宅の方は佐々木という名主でして、父は終生大切に崇め奉っていたという表現がぴったりします。
 さて富士登山の一行が恵比寿駅に集合した頃名主様も一行を送りに見えて居り、全員揃ったのを見て万歳三唱し、元気に行ってらっしゃいと励まして下さいました。皆も大張り切り意気揚々と富士吉田へ行く電車の人になりました。
 何時間位富士の裾野を電車は走ったでしょう。やっと登山口に近い吉田駅に着きその日は坊へ泊りました。翌日から登る心算でしたのに雨に降り込められ何と五日間も坊で雨の上がるのを待たねばならず、頼み甲斐の無いてるてる坊主をうらめしげに眺める私たちでした。
 もうこれ以上は待てないというので一行はバスで行ける所迄行って帰って来ましょうと話が決まり、全員手ぶらでバスに乗りました。三合目迄行くと頂上は青空の許くっきりと姿を現しているではありませんか。一同歓声を上げ、バスから降り、六根清浄の杖を買ってさあ登山です。姉も私も杖を買いました。この杖がこれからの登山に無くてはならないものだと言う事は後ではっきりわかりました。お蔭で頂上まで行く事が出来、八合目まで降りて来て八合目の室(むろ)で一泊、翌朝ご来光を拝む事が出来ました。富士山から見るご来光はさえぎるものがありませんからそれはそれは素晴らしいものでした。色もきれいです。それから一行は砂すべりでスースーと下山、途中下から上に向かって降る雨にあい近くの茶屋で休んでいる中、仲間がずっと下の方に行ってしまい心配しましたが、下に降りた所で一行に逢えて安心。無事下山し一同揃って帰路に就きました。雄大な富士の裾野を走る電車から馬が放牧されている珍しい様子も見られ、やはり旅は良いなと思いました。
 やがて新宿に来ればもう帰って来た様なもの。恵比寿駅に着いた時は夏の日もとっぷり暮れて辺りは真暗でした。一行が改札口を出た所に名主様のにこやかな笑顔が出迎えて下さっていました。先達の浅井さんと挨拶を交わした後名主様は全員に行き渡る数の提灯を用意して持ってきて下さっていたのを見た時私は大感動したのです。上に立つ人は当り前と思う人が居るかも知れませんが、今の様に民主主義の時代ではなく名主様といえば雲の上の様な方がです。全員にもれなく提灯を持参して下さる等本当に勿体なくて感動したのです。全員それに火を入れ恵比寿通りを直すぐお屋敷の有る一丁目に向って二列縦隊で行進しお庭に入りそこで無事富士登山が終えた事を先達が名主様に報告し大人の人達は御神酒を頂き、全員で三本締めをして解散したように覚えています。
 昭和の御代になっても江戸時代から代々継承されて来た名主の使命をきちんと受けついでいられる名主様に尊敬の念をいだきました。
   (平成十九年二月二十五日・倉本トモ子・八十五歳) 

  桜                              山口ハル子


 春四月枯木のようにしている老木に桜が満開いっぱい我が世の春とばかり花を咲かせて道行く人を楽しませてくれる。
 我が家から窓を開けると見える。桜さん今年も春ねと語りかける。何時まで見ることができるかなと思う。
 今日は日曜日、西都原もいっぱいの人でにぎやかであろう。前の日曜におべんとうを持って行った時は、山桜が一本だけ菜の花がきれいであった。
 あちらこちらにおべんとうをひらいている人達もみかけた。今年は寒い日があり上衣を脱ぐ日あり、春の日も過ぎて行く。
 夜は私の誕生日だったので、おすし屋さんで祝ってくれた。
 年を取ると寒さには弱い。風邪を引かずに過したいと思っている。
 今日も平和な一日であった。
 ありがとう御ざいました。