詩誌「詩人散歩」(平成19年秋号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  怪 音                            倉本トモ子


 お盆の十三日、この日は息子が遠くまで仕事に行き仲々帰宅出来ず、私は床の中で目を醒していました。
 やっと帰って来たのが朝の四時、それから息子は食事をし、お風呂に入り、自分の部屋へ引き上げようとしたのが早朝五時でした。三四歩行った時突然ものすごい大音響がしたのです。私の部屋の入口近くでその大音響は起ったのですが、確かな場所が分らないのです。私はその時無意識に左手が仏壇の方を指していましたが、半分はお店の方に向いていました。息子はお店に置いてあるピアノの弦が切れたと思い、お店の電気をつけました。私も行きましたがどのピアノも平穏無事に寝っています。あれだけの大音響ですから此の家のどこかの何かに異変がある筈だと思い調べましたが、何も変わった所は見つかりません。正に怪音という外表現の仕方がないのです。
 私は寝つかれないまま考えてみました。暫くして「アッ」と気がつきました。何で何でそんな事に気が着かなかったの? と自問するのですが、どうしてか全くわかりません。
 お盆には沢山のご先祖様が帰って下さると幼い時から信じていますから、お盆は大好きで、お盆には仏様にあれを上げてこれを用意してと楽しみにして迎える七月十三日なのです。その私が今年はすっかり七月十三日が来ることを忘れてしまっていたのでが不思議です。何なの、これは、ボケたのかな、ボケの入口に来てしまったのかな、変だな、何なの、何なのこれはと盛んに自分を責める。あの大音響、息子もきいたのですから嘘ではありません。
 婚家の両親も実家の両親も子供にきつい事を言う人達ではありませんでしたから、大切なお盆を忘れた私に対して今「喝」を入れておかなくてはボケてしまうと思い、大音声の喝で私をボケから引き離してくださったのだと解釈し、温情に感謝するのでした。
 十四日は昼間ながらお迎え火をたき、お団子、お花を供し、お詫びしました。そうしているとき、北海道の恩人から夕張メロンがとどき、仏様にお供えさせて頂きました。
 人間は生きている間はやらなくてはならない御役がある事をかみしめました。そして仏さまはいつも私と一緒に居て下さるという事もよく分かりました。(平成十九年七月十五日)

  お父さん安らかに                       山口ハル子


 昭和十九年四月、中国徐州より休暇で帰り、鵜戸の戦死をされた人の家に行きたいからお前もいくかとの言葉について行った。戦死の話を聞きながら声も上げずに肩ふるわせて泣いておられたお母さん。戦争はお国のためにお国のためにであった。悲しい想い出である。
 帰りに鵜戸神宮へお参りした。古い石段を長い軍刀はコツコツと今も胸の中に昨日のように思い出される。お父さんと思い出すと涙とまらずである。
 昭和二十一年無事に内地へ帰り五十四年の夫婦の暮し、山あり谷ありの日々であった。二人の子供にも恵まれどうにか二人で努力し小さいながら家も建て平和に暮らしていたが、長男二十三歳で世を去り親を悲しませた。スポーツは何でもこなして昭和三十九年の東京オリンピックには聖火を持って走った。高校二年の時であった。
 父さんは二度も救急車に乗り病院生活も三年ほど過ごしたが八十三歳で静かに世を去った。
 朝早く目がさめたら涙が止まらなかった。安らかに旅をしてください。