詩誌「詩人散歩」(平成21年夏号)

yuyake
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  がっかり                         倉本佳代子


 昭和十二、三年頃の思い出話です。
 私の家の恵比寿から大崎広小路迄、お稽古に通っていた頃五反田で下車し広小路に向って急ぎ歩いていましたら、私の前を一見五十歳代で和服を着た男の人が歩いていました。その人が財布をポトンと落したのです。知らずにどんどん行ってしまうその男の人に、私は小走りに走って行って財布を落したことを一所懸命知らせました。そして拾った財布を手渡して上げました。
 普通ならとても嬉しそうな顔をすると思うのに、この人はアッそう、とあまり嬉しそうな表情も見せず受取りました。その財布は皮で出来たいかにも上等な品です。その人は自分が落したことも、又、私が拾ってあげたことにも大した関心が無い様な素振り。
 一方私のほうはまだ花も恥じらう十代の娘、その私が一大決心をして、その男の人に財布の落ちたことを知らせたのです。本当は恥ずかしいので見て見ない振りをしようかなという心が浮んだのですが、それは私の罪悪感が許しません。全身の勇気を振い起し、一所懸命になって財布の落ちたことを教えて上げた時の私の顔はきっと真剣な顔をしていたと今になって思います。
 それなのに、その人はあまり嬉しそうな顔もせず、アッそうと、簡単に手を出して受け取りました。まだ心中興奮している私ではありましたが、一寸心に浮かんだのは、不要なお金ではないにしても、その人にすれば大した重要なお金でもなかったのかも知れない等と思い乍ら、先生宅のお稽古を終え帰宅し、其の出来事を母に話しました。
 母の意見は私の考えとは正反対なのには又々全く驚かされました。母曰く「わざと厄払いに落す人もあるんだよ」と。そのような風習のあることさえ知らなかった私は、それ迄心のどこかで善い事をしたと秘かにニコニコしていたのに、一辺にペシャンコにつぶされ、がっかりし、もし厄払いにあの人ごみの中で落したとしたらそれは場違い、もっと静かな神社の境内等の方がお似合いだったのではないですかと、問い度い気持ちでした。

  日々感謝して                       山口ハル子


 私もお蔭様でねこみもしないで米寿を迎へ、お味噌汁もつくって、竹ノ子のお煮つけもたいたりして、一ぱいの御飯は美味しく頂き、朝夕は亡き夫子にお蔭様と手を合せて日々過ぎて行きます。
 ぼちぼちでも動けることは幸と思います。足はひざかんせつで、杖をつきながらですが、ほんとうにありがたいことと思っています。
 暖かくなりストーブの出番もなくなりました。これからも元気でありますように、感謝をして過したいと思っております。