詩誌「詩人散歩」(平成13年夏号)
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  桜散る                  山口ハル子

 春は名のみの風の寒さやと歌のとおり寒い。父さんが亡くなったのは二月寒かった。
 三回忌も体の弱い私は無事にすませることができますようにと毎日お祈りしていた。
 無事にすませてほっとして仏前に手を合せた。三回忌が過ぎると少しづつ涙が少なくなると言われた。時々父さんが好きで唄っていたのを口ずさむ日もある。
 兵隊に行く前、「船頭小唄」「はぶの港」等自転車に乗って当時流行の歌を唄っていたものだと話してくれた。時に父さんを思い出して私も口ずさんでいる。
 時は流れても歌は楽しく又時には涙して聞いている。私も歌は好きでテレビの番組を楽しみにしている。
 父さん今日も大きな声できこえるように唄って下さい。デイケアでは二人でよく岸壁の母を歌いましたね。耳をすませています。
 道路向いの家の櫻もハラハラと散っています。

  ハイヒール・エレジー            佐藤恭子

 彼女と出逢ったのは病気に対し同じ治療を受けながら生活する施設の仲間としてだった。同級であるという事で友達として親しくなっていった。
 物書きを趣味とする彼女は華奢ではなかったが生きるという事に対してどこかしら影が薄い感じの女性であった。
 その施設は退所後独り暮らしをすることを目的としていた。私は彼女より入所が早く先に退所。独り暮らしを始めた。そして彼女も住居をみつけ退所した。その後手紙だけのつき合いとなったが、当時二十八歳であった私達は将来に夢があった。私はたまたまつれあいが見つかったので、入籍できる事を、彼女は脚本家としての道を夢見ていた。
 ところがある日先に結婚が決まる事に…嬉しさとわずかな悔しさが残った出来事であった。相手は普通の人だという事で「お幸せに」と祝福した。
 そして一年経た位の時、いつもの様に年賀状の交換する正月になる。昨年の暑中見舞い以来の葉書の交換であった。
 しかし年賀状は届かなかった。いつも脚本家らしくキチンと返事をする彼女が…私はきっと旦那様に昔の施設の友達とのつきあいをやめるように言われたのか? 親類に不幸があったからか? と色々と思いめぐらせた。
 ついにしびれがきれ、手紙を出しはっきりと返事をきくことにした。しかし何日経っても返事が来ない。最後の手段として電話をしてみると、四〜五回呼び出し音が鳴った。留守か?と思った時、男性の声で電話がつながった。ことわられるかと思ったが彼女を出して欲しいと告げると、落ち着いて聞いて欲しいという返事、私の脳裏に不安がよぎる。ー再入院かー
 ところが答えはちがった、昨年の八月二十二日、帰らぬ人となっていた。
 体の震えと心臓の鼓動がはげしくなる。何が起こったのか? まだ結婚生活だって始まったばかりじゃなかったのか?
 私よりずっと幸せな生活を送っていたはずじゃなかったのか?
 しかしすべては現実だった! 当然、彼女の旦那様であった人には、原因はきけなかった。そして何を言ったかわからないが、言葉をもつらせながら電話をきった。彼の声は私を軽べつするどころか、彼女の結婚生活が幸せであったことを十分感じさせるやさしい響きがあった。
 今日は人の死を身近に感じた夜になった。私も同病者、いつこの世を去るかわからない。まだ三十(みそじ)を 半ば過ぎた位の早すぎる彼女の死。今まではりつめていた生きることへの自信が一挙にくずれた。あとどの位生きられる? 自分で死を選ばないとも言えない。複雑な思いがめぐる頭の中、死はだれにでもおとずれるものとはいえ、残酷な現実であった。
 彼女は、親の離婚や再婚を経験しているときいていた。
 今、ここに彼女の書いたもので、「ハイヒール・エレジー」という本がある。
 その内容は恋愛が中心であるが、最後には若い主人公の死で終っていた。読んでみるとあまりにも現実と似ていて、彼女の人生をのぞいた気がした。
 ここに彼女を知る友達として、彼女の送った人生の軌跡を残すべくこの文を追悼の意をこめて発表します。そしてご親族の方には、たいへんお悔やみ申し上げます。
 彼女の死を知った夜にー。