詩誌「詩人散歩」(平成25年夏号)

yuyake
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  「無我」の読みかた                    浪  宏 友


 仏教の教えに出てくる「無我」を「我が無い」と読みましたら、先輩から「我では無い」と読むのだよと笑われました。そのわけは「我」の意味にありました。
 私たちは、この身体が自分であると思っています。この身体のどこかに心が宿っていると思っています。
 この身体はいつか死にます。しかし、死にたくないという思いが奥の方から突き上げてきます。死にたくないと思ううちに自分は死なないのだと思ってしまいます。身体が死んでも心は死なないとか、魂が死なないとか、とにかく死なないと思い込みます。
 私たちは、自分は一人で生きていると思いがちです。誰の世話にもならないと豪語する人がいます。自分だけの力で生きていると頑張る人がいます。
 人は、また、なにごとも自分の思い通りにできると思い込みます。自分が思い通りに行動しようとすることはもちろん、他の人をも自分の思い通りに行動させようとします。自分の思い通りにならないと、腹を立てることもしばしばです。
 「いつまでも生きている自分」「一人だけで生きている自分」「なにごとも思い通りにできる自分」のことを「我」と言います。「我」は、現実にはありえません。「〈我〉は現実にはありえない」ことを「無我」と言い「我では無い」と読むのです。
 「我」は思い込みが作った幻の自分です。しかし、多くの人々が幻の自分にしがみつくようにして生きています。幻にしがみついたのでは、空回りしてしまいます。正しい生き方はできません。これが迷いの人生です。
 「自燈明・法燈明」という教えがあります。この「自」はどう考えればいいのでしょうか。この問いに対して、先輩は「自」とは「現象上の主体」だと教えてくれました。
 「現象上の主体」としての自分は、他の人びとと関わりながら生きている自分です。原因・結果の原理の中で生きている自分です。やがて他界する日が訪れる自分です。「我ではない自分」、「無我」なる自分なのです。
 自分は「無我」であることを自覚した上で、法の示すとおりに実践し、関わりある人々を大切にし、生涯を大事にすることができれば、中身のある、充実した人生を歩むことができます。「自燈明・法燈明」は、このことを教えてくれているのだと思います。