詩誌「詩人散歩」(平成27年夏号)

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  自洲・法洲                        浪 宏友


 ご入滅を前にした釈迦牟尼世尊が阿難に語る形で残された教えがあります。
 「アーナンダよ、だからして、自己を洲とし、自己を依拠として、他人を依拠とすることなく、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とすることなくして住するがよい」(増谷文雄著『阿含経典第六巻』筑摩書房p.76)

 この教えは、ここで初めて説かれたのではありません。これより以前に、比丘たちに向かって同じ教えを説いておられます。
 「比丘たちよ、自らを洲とし、みずからを依拠として、他を依拠とせず、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とせずして住するがよい」(増谷文雄著『阿含経典第二巻』筑摩書房p.67)

 ダンマパダ(法句経)にこのような経文があります。
 「こころはふるい立ち、思いつつましく、行ないは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。」(中村元著『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫p.13)
 ここの「みずから制し」「法にしたがって生き」は、自洲・法洲の実践に違いありません。

 仏教経典のなかでも最も古いものとされるスッタニパータに次の句がありました。
 「自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人びとがいる。−−−そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。−−−バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫p.103〜104)
 ここでは、自らを洲として世間を歩み、解脱に達した人に対して供養することが勧められています。解脱に達するには法の実践が欠かせません。この一節は、自洲・法洲を実践することの尊さが語られていると見ることが出来ます。

 このほかにも釈迦牟尼世尊は、随所で、自洲・法洲の教えを説いておられます。また、自洲・法洲の言葉は使わなくても、さまざまな表現でこの教えに通じる内容が経文に表われています。

 釈迦牟尼世尊の伝記に次の話がありました。(中村元選集第十一巻「ゴータマ・ブッダー釈尊の生涯ー 原始仏教」春秋社、p.194〜196)
 悟りを得た直後の釈迦牟尼世尊に「これから自分は、誰を尊敬し、うやまい、たよっているようにしたらよいのだろうか」という思いが起りました。
 しかし「戒」においても「瞑想」においても「智慧」においても「解脱」においても「解脱したとたしかめる智と見」においても、自分以上に身にそなえている人は見当たりませんでした。
 釈迦牟尼世尊はひとつの結論に達しました。
「わたしはこの法を悟ったのだ。わたしはその法を尊敬し、うやまい、たよっているようにしよう。」
 釈迦牟尼世尊は、自らの意思(自洲)で、法を洲としていこうと心に決めたのだと、私は解釈しました。

 釈迦牟尼世尊は、説法を始める前からご入滅まで、自洲・法洲の根本的な姿勢を貫いてこられたのであり、私たちに残された教えにも、その精神が貫かれているのだと、改めて思いを致しました。